降参すればいい


   宿の前はBelliol という名門カレッジ。ドイツのヴァイツゼッカー元大統領もオックスフォードの卒業生。
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                                      富める青年 (上)
                                      マルコ10章17-22節



                              (1)
  人生に意味を与えてくれるものは何でしょうか。生きる意味を与えてくれるものです。何のために生きのかという根源的な問への答えです。それがあればどんな困難も乗り越えられ、どんな試練も雄々しく受け留めて進めるでしょう。

  詩編の信仰者は、主は私の砦の塔だと語り、私の大岩、逃れの岩と語りましたが、その様なびくともしない人生の拠り所を持つことです。

  今日の聖書は、「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』」と語っています。「受け継ぐ」とは、手に入れる、獲得するという言葉です。

  男は、イエスが旅に出ようとされたので、息せき切って走って来たのです。慌ただしく掛け込んで来たというこの状況設定は恐らく間違っていないでしょう。イエスがどこか遠くに旅立たれると聞いて、この時を逃したらイエスに聞けないかも知れないと思って、切羽詰まった思いで急いでやって来たのです。

  「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」彼は人生の意味を切に求めて来たのですが、莫大な財産を手に入れたものの、人生の意味は未だ見つけることが出来ないでいたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいのか」という言葉に、彼の煩悶が滲み出ています。

  「永遠の命」とは、言い換えれば永遠の将来に渡って望みを授けてくれる拠り所です。人生の根源的な意味です。「永遠の命」以上に善いものはありません。彼はそれを切に求めていたから、イエスの前に跪いて、「善い先生…」と語って懇願したのです。

  彼は純粋な男でした。走り寄って跪いて尋ねたとあることから、この男は躊躇なく行動する活動的なタイプの男だったでしょう。だからこそ財をなしたのかも知れません。彼は、イエスのこれまでの行状から、この方は善い事をお教え下さる先生だと確信して、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と問ったと言って間違いありません。何をしても心が満たされなかった彼は、満たされぬ思いを正直に吐露して、「何をすればよいのでしょうか」と尋ねたのです。

                              (2)
  するとイエスは、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と語られました。「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」との言葉には、主なる神のみを仰げということが含意されていたでしょう。神のみを仰いで、これらの戒めを行ないなさい、君は、十戒に含まれる、「殺すな」など、倫理的な7つの戒めを知っている筈だ。それを行ないなさいと言われました。

  ところが彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えたのです。そんな事は、少年時代から遵守しています。ずっと励行して来ました。即ち彼の思いは、十戒をずっと厳格に守って来ましたが、十分満足が得られず、将来に渡る力強い希望をそこから汲み出すことが出来ないでいるということでしょう。

  それをお聞きになったイエスは、「彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。「見つめ」とあるのは、しっかりと相手に眼を留めることです。「慈しんで」とある所から、イエス様の目は彼への慈しみと愛で満ちていたのです。

  イエスは彼への好意と善意を持って言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

  彼に愛と好意を抱くゆえに、「君は完全に十戒を守って来た。だが、ただ一つ欠くものがある」と単刀直入に言われたのです。君がそこまで言うのなら、君に真に不足しているものを申しましょうと、最も大事なものを指摘されたのです。

  「あなたに欠けているものが一つある」とは、いわばジグソーパズルのワン・ピースが欠けるようなものです。あなたが完全さをそこまで求めるのなら、最後のこのワン・ピース必要だ。それがなければ、全体が崩れる。

  これはイエスが説いて来られたことではありません。この男が目指して来たことです。その求めをして行くなら、その行きつく先はどうなるかを指摘されたのです。君が求める人生の根源的な意味の答え、それは君の行き方で行くならこの最後の、君に欠けているワン・ピースを手にする事によって得られるだろう。それはこれだ。さあ、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

  永遠の命を求める君のあり方、永遠の命を獲得しようとする君のあり方を更に追求して行くがよい。君の求める永遠の命は、「君の全財産を売り払って、貧しい人たちに施すことによって得られるだろう。そうすれば天に宝を積むことになるだろう。」それから、私に従いなさい。

  イエスは、彼に対して何をされたのでしょう。彼が出来ない事です。彼が不可能だと気づくことです。キリストの前に降参することです。降参して、主よ、信仰のない私をお救い下さいと、謙虚にイエスに求めることです。

  イエスは言外に、君は、自分にはそんな事は到底出来ないという事を認識することこそ、永遠の命を与えられる端緒であるとおっしゃりたいのです。

  私はそんな事はできません。私には家族もいます、子ども達も育ち盛りです、仕事場で働く賃金労働者たちもいます。そんな事をすれば私だけでなく、家族も子どもも、労働者たちも今日から困ってしまいます。そこまでは到底出来ません。どうかお助け下さいという謙虚な生き方こそ、永遠の命を求めて完全の道を歩いている彼がハタと気づくべき点です。彼は一度木っ端みじんに砕かれることこそ、彼が救いに入れられる道だと考えられて、彼をとりわけ慈しみ、愛と好意を持って語られたのです。

  彼の、「何をすればいいのか」という彼の傲慢を砕くためです。もし彼が、永遠の命を手に入れる何事かをしたら、彼は甚だ鼻持ちならない、傲慢極まる、永遠の命を授けられた人とはおよそ正反対の人間になったに違いないでしょう。

      (つづく)

                                   2017年7月2日



                                   板橋大山教会  上垣勝



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