絵本作家と町おこし


 ビアトリックス・ポターの時代からある郵便ポスト。背伸びして投函してもらいたかったのです―。
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                            一粒の麦

                                     ヨハネ12章24-26節


                            (1)
  イエス様は、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とおっしゃいました。

  「はっきり言っておく」とは、原語でアメーン・アメーン・レゴー・フュミンという言葉で、「まことに、まことに、私は真実をもって言う」とおっしゃったのです。一粒の麦は、こうなるかも知れないというような曖昧な事でなく、こうなるのは確実で、信頼できる事だと言い切られたのです。ですから、ここでイエスが言われた事は、誰もが信頼していいことである。確信していいことであるという事で、イエスはそういう真理を語られたのです。

  「地に落ちて」とある地は、大地のことです。私たちが生きる世界です。「地に落ちて」とあるのは、「地の中に入って」と訳すべき言葉です。地上にチョコンと乗っかっているのでなく、地に入って自らに死ぬ事を言っています。これは「あなた方は地の塩である」という言葉を思い出させます。社会の中、世界に入り込むことです。

  だが、死ななければ「一粒のままである。」それは実を結ばず、たった一粒のままで終わる。「死ねば豊かに実を結ぶ」のに、自分、自分と自分を固守して自分を与えない生き方は、孤高を保っている訳でなく、それは何も実を結ばない人生だと言われたのです。

  なぜ死ぬことが出来ないのでしょう。色々の理由があるでしょうが、「自分の命を愛して」いるからです。愛するとはこの場合、自分が可愛くて、捨て切れない。自分を慈しんで、裸になり切れないからです。自分を手離せないのです。

  私自身のことを申しますと、私は、人前で何一つまともな事を話せない人間でした。内向的で、自意識過剰な人間でした。心を閉ざし、心を明け放てなかったのです。口下手で、引きこもっていました。しかしキリストに出会う中で、すぐにではありませんが、徐々に、自分がどうであるか、どう思われているかの意識、過剰な自意識を捨てられるようになりました。

  キリストが一切の私を知っておられ、自分を隠してもキリストの目には明らかであり、隠すことも自意識で悩むことも必要ないと悟るに至ったからです。それで自分への意識を捨てて、自分を忘れて裸になって行けたのです。変化は急でなく徐々にですが、いつの間にか話せるようになっていたのです。

  皆さんの中に、もしそういう方がおられるなら、キリストに自分を委ねて行かれれば、ご自分から解放され、ご自分を自由に表現できるようになると思います。その様な方は実は非常に良いものを与えられている、2回生まれの方です。1度生まれただけではダメだったが、2度目に生まれる時に自分の真の命を発揮して行かれる方で、実は神から特別愛されている方です。

  「だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」とあるのは真実で、自分に死ぬと本来のその方らしい力が発揮されるようになるのです。また多くの実を結ぶようになる。多くの収穫に与るようになるのです。

                           (2)
  「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ…」、「だが、死ねば」とありますが、「死ぬ」とは無論自殺ではありません。真実に死ぬこと。真実に自分に死ぬことです。偽装の死、偽りの死、死を装う事でなく、真実に神のため、他者のために死に切ること。この真実さが死に命を吹き込むのです。キリストはそういう死を死なれました。だから、その死は真実なまことの愛でした。

  「地に落ちて…死ねば、多くの実を結ぶ」とあるのは、死に徹すればということであり、自分を固守せず捨てるなら、世界に入って他の人のために真実に自分を使うならば、という事です。キリストは他者のためにご自分を捨てられました。自分を忘れること、放棄すること。その時に多くの実を結ぶのです。不思議ですが、早く実を結ぼうとするのでなく、キリストに出会うと言う回り道して行くと実を多く結ぶのです。

  日本では、「死んで花実がなるものか」と言われますが、死の哲学の懐(ふところ)が狭いと思います。死を否定的にしか見ていません。むろん常識的にはそうでしょう。しかしイエスは逆説的に、「死ななければ一粒のままだ」と、人生の真実を喝破されたのです。

  今回の旅の主な目的はテゼの研修でしたが、他にも、「ピーター・ラビットのお話」や「ローリー・ポリー・プディング」とも言われる「サムエル・ウイスカーズのお話」など、23の絵本を書いたベアトリクス・ポタ―の湖水地方の家を訪ねました。

  イギリス北部の湖水地方大自然の中にポツ、ポツと家が点在する淋しい片田舎。辺鄙な100を下らない湖水が多い地方です。彼女は今から100年程前、首都ロンドンから、言わば一粒の麦としてこの地に落ちて、この地で自分を与えた人と言ってもいいでしょう。湖水地方の自然や村の人たちから都会にないものを得て、ピーター・ラビットという素晴らしい絵本を生みました。

  私たちはそこへ行って見て、今は多くの人が行きますが、当時、人々が少しも顧みない地で、彼女は素晴らしい物語を生み出し、100年後には世界の人を惹きつける土地にしたと思いました。彼女が愛読した聖書が開かれていましたが、それは詩編23篇から26篇でした。

  彼女は絵本の印税のお金で次々と農地を買い、膨大な農地を所有する事になりますが、やがて建物、土地、財産を一切、ナショナル・トラスト自然保護運動に寄付したのです。しかも匿名です。彼女は信仰に基ずいて環境保護の闘士だったと言われます。

  ピーター・ラビットは母と3人姉妹たちと生きる腕白な野兎ですが、お父さんは近所のマクレガーさんに捕まってパイにされたので、お話には登場しません。パイにされちまったなんて、残酷でもあるが、真実である子どもへのお話です。たかが子どもの本というようなものではありません。そこには真実な魂が生きていたのです。「心を高く挙げ、岩のように堅く立て。信仰に立て。それは人類すべての唯一つの安らぎである」という刺繍の縫物を残しています。

  辺鄙な湖水地方に、一人の真実な魂が生きたのです。単にピーター・ラビットという人気の絵本作家が惹きつけるのではありません。その背後にある、真実な信仰者の高貴な魂が今日の世界の人々を惹きつけているのです。

  単なる村おこし、町おこしは限界があります。日本中どこに行っても、ほぼ同じタイプの町おこしです。そんなものでなく、真実なもの、人の心を深く打つものが人々を惹きつけるのでないと、すぐ飽きられます。社会のあり方の面からも、生き方の面からも多く教えられた旅でした。

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  聖書に戻りますが、イエスは、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とも言われました。

  自分を愛することなしには、他の人を愛することはできません。だが、自分が可愛くて裸になれない。惜しくて自分が捨てられない。人に与えられない。その時、自分の命を失うのです。原語で言えば、滅ぼしてしまうのです。あるいは滅びるのです。

  ところが自分の命などどう評価されてもいい。自分の命を憎む程に、自分のことを気に掛けず、神を仰いで人に与える。その時、永遠の命に至るのです。

  「自分の命を憎む」とあるのは、元の言葉では、軽視する、捨てて顧みないという強い言葉です。自分の命など惜しくない、捨ててしまっていい、イエス様のためなら人に与えてしまっていいと考えて与える人は、却って永遠の命に至るのです。ここでも心の真実性です。

  これが逆説です。パラドックスです。イエスは人の意表を突く語り方で、人生と生活の真理、いや奥義を語られたのです。そして、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」と言われたのです。

  自分の人生を大切にする。そのこの世的、常識的考えを捨て、キリストに仕えよう。キリストに従おう。その時、キリストのおられる所にあなたもいることになる。そして父なる神はその人を大事に起用して下さると語るのです。

  「私に仕える者」とは、キリストに奉仕する者のことです。「父はその人を大切にしてくださる」 とは、父なる神が、正しく、高く評価して下さる。尊んで下さるという意味です。

  私たちは、人の目でなく、父なる神がどうご覧下さるかという点をどれだけ重視し、大事にするかで、生き方が異なって来ます。

  神の国という、目に見えぬ希望の将来から自分と今の社会を見るのです。キリストの復活の光の下で、今を見るのです。死に勝利されたキリスト、その勝利の希望を知って今あるべき、明日あるべき事を先取りして生きるのです。すると我慢強く、弱音を吐かず、したたかで、明るく歩めるようになるのです。困難な時代においても、神の国を先取りして、諦めずに進めるのです。

  信仰者の持つ試練や困難があります。イエスに従う者に対する迫害や試練は、神のご計画の一部分であるのを知っておきたいと思います。旧約の預言者はあらゆる迫害に遭いました。イエスも長老、祭司、律法学者たちから迫害され、使徒たちもイエスの名のために迫害を受け、迫害を受けながら、イエスの名のために辱めを受けるようになったことを喜んだのです。

  この人たちは、「天の宝を受け継ぐ」事を知っていたために、迫害に耐え忍ぶことが出来たのです。

  今申し上げているのは、彼らは、「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」という約束に生きたという事です。そして将来の確かな希望の約束が、彼らの今を導き、今の自分を力づけ、弱音を吐かず、我慢強くし、したたかに、明るく建設的に生きさせたということです。希望の明日が確かなら、今どんな事があろうと諦めないでしょう。

  一粒の麦は、地に落ちて死んでいいのです。死ねば、多くの実を結ぶからです。一時は理解されなくても、実を結ぶのです。だが 自分の命を愛する者は、それを失います。一時は繁栄しても、やがて失います。だが、この世で自分の命を憎み、それを与える人は、それを保って永遠の命に至るのです。キリストに奉仕しようとする者は、キリストに従うのです。そうすれば、キリストのおられる所に、キリストに仕える者もいることになるでしょう。キリストに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださるでしょう。

      (完)

                                    2017年6月25日



                                   板橋大山教会  上垣勝



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