私の家に泊りなさいよ


                         マンチェスター郊外のAさん
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                                       新しい始まりに向かおう (中)
                                       マルコ16章1-8節


                              (2)
  婦人たちはその後どうしたでしょう。他の福音書と違って、マルコ福音書は何も語りません。9節以下は本来のマルコにはなかったのです。だからカッコで括られています。単に好奇心を満足させるために福音書が書かれたのでなく、キリストは甦って、私たちより先にガリラヤに行かれるという福音は、私たちにとって何を意味するのか。マルコは、ガリラヤで復活のイエスと出会うという所で終わりますが、この善き福音の訪れを人々と喜び分かち合うためです。

  私たちもイエスを墓で発見できません。私たちもガリラヤでイエスを見つけるように招かれているのです。過去をいかに研究しても、復活のイエスの痕跡はどこにも見つけることはないでしょう。私たちも、過去のイエスの墓でなく、私たちのガリラヤ、現代の私たちのガリラヤでキリストに会うように招かれているのです。

  私たちは聖書を読み、繰り返し読み読けることが必要です。そうする中で、聖書が示す私たちのガリラヤで、イエスと出会い、彼を発見するでしょう。そして弟子たちの町、私たちのガリラヤ、私の暮らしの中、どこか遠くの旅先や普段の生活と離れた場所でなく、私たちの生活の現場で復活のイエスト出会うのです。イエスは私たちより先にそこにおられるからです。

  復活のイエスへの招きに、最初は恐れで縮こまるかも知れません。イエスのお声は、ただ私たちの魂への真実な呼びかけとして聞こえるのみで、お声が幻聴のように聞こえる訳でなく、その真実と思える呼びかけに自分を掛けるのは勇気が要り、心配も起こります。だが、み言葉に率直に導かれて出発すれば、途中で起こる色々な障害を心配する必要はありません。

  役員会でお許しを得て、フランスにあるテゼ共同体の研修を中心に、お休みを頂いて、色々な経験をして来ました。皆さんがこんな休みを下さった事を心から感謝します。また休みの間、礼拝の奨励をして下さった方、子どもへのメッセージをして下さった方、週報を作って下さった方、外部の先生の接待に心を使って下さった方、また目立たない所で礼拝の準備に心を配って下さった方。また花壇の手入れをして下さった方もあり、感謝します。私たちの方は、色んな事を経験する中で、皆さんが背後からお祈りして下さっているのを強く感じました。

  日本に帰る前の晩に、予約していた宿が閉まっていて泊れなかったのです。Fさんが中板でairB&Bを始められましたが、それと同じようなairB&Bに、イギリスのマンチェスターで泊ろうと、予約していた家に行ったら、家は留守で1時間待とうが2時間待とうが、また色々と電話しようが誰も来ないのです。付近は広大な住宅街で、ホテルは一切なく、レストランさえない場所で、夜の8時近くなっても連絡がつかず、そのままでは空港に引き返すバスもなくなり、外国の老人二人がどこにも泊れず、腹を空かして野宿するしかない事になります。初めて難民の不安を経験しました。

  向こうは寒く、冬のセーターを着ていました。家内は4、5日前から風邪を引いてぜーぜー言っていました。家の主と何とか連絡を取るために、近所の2人の住人からも電話を掛けてもらいましたがナシのつぶてで、心が潰れました。

  万事休して、空港に行こうと、10数キロの重いスーツケースを引きずって移動を始めました。そして暫らく行った時に、中年の婦人が生垣を電動カッターで切っていたので、家内が声を掛けて、思わず窮状を訴えました。

  するとしばらく聞いていたその女性は、私の家に泊りなさいよと、思い掛けないことを言ったのです。一瞬耳を疑いました。何か企んでいるのかとさえ疑りました。まさか見ず知らずの外国人の老人2人を、その場で即決で泊めようなんて、家内は泣いてその人にすがりつきました。

  ご主人に相談しなくていいのかと私は聞きましたら、夫はいない、自分は2人の男と結婚したが、1人目は飲んだくれの上、暴力を奮う男であった。2人目はギャンブラーだった。2人の子どもがいるが、今、自分は一人で暮らしているので、泊っていいと言って、電動カッターをそこに置き、私たちの荷物を家に運び入れてくれて、飲み物を出したり、寝床を作ったりしてくれたのです。あっけに取られました。

  詩編23篇に、「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」とあります。今回ほど、私たちが行く所、行く所に主の恵みが後を追って来て、一難来てもまた恵まれ、一難来てもまた助けられ、命のある限り恵みと慈しみが追って来て下さるというのは本当だと思えた事はありませんでした。翌朝早く、何とマンチェスター空港まで送ってくれました。

  ゼファニヤ3章14,15節に、「娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」とあります。王なる主はお前の只中におられる。只中にいて決してどこかへ行ってしまわれないのです。

  「神、我らと共にいます」と新約の冒頭で語られています。先ず神の国と神の義を求めるなら、明日のことを思い煩う必要はないのです。み言葉により頼んで前進するなら、どんな障害も神の愛から私たちを引き離すことは出来ない事を、神の恵みと慈しみを、どんな障害物も阻む事が出来ない事を繰り返し発見することになるでしょう。神の言葉はいつも私たちを追い、私たちに届けられ、前進する道を示し、私たちはその道を発見することになるでしょう。

  今日のマルコ福音書のみ言葉は、イエスは私たちのガリラヤで必ず待っておられることを疑わず、信じるようにと招いています。喜びと共に、失敗や悲しみや色々な人生の生傷を持つ私たちですが、そんな過去にも、暫らく前に紹介した「足跡」の詩で語られていたような、一番苦しい時にキリストが私たちを背負って歩いて下さった痕跡があるのではないでしょうか。人生にはあらゆる種類の疑問が起こりますが、私たちが行くべき道を選択をするには、彼に信頼を置くことが必要です。不確かさと希望が入り混じった私たちの未来を、彼に委ねるのです。イエスは私たちを待ちながら、ガリラヤにおられるのです。

  私たちのガリラヤです。そこで復活の主、今も生きて働いておられるイエスに出会うのです。出会えるのです。

     (つづく)


                                   2017年6月18日

                                   板橋大山教会  上垣勝



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