時間を掛けたから いとおしい


         2階建てのデラックスなメリーゴーランドが、元ローマ教皇庁の中庭にありました。
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                                         父親としての諭し
                                         Ⅰコリント4章14-21節



                               (1)
  パウロはコリント教会のために色々と心を使って来ました。今日の14節は、「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない」と書いています。養育係とは、当時の上流社会にあった子どものしつけ係で、住み込みの家庭教師です。学校への送迎も家庭教師がしたようです。

  パウロは先週の所で、コリント教会の一部の高ぶる人たちにかなり厳しく、思い切った事を書きました。何が問題かを理解してもらうためには、そこまではっきり言わざるを得なかったのでしょう。ところが今日の所では、突然優しい調子になります。これまであなた方を戒め、警告したのは、あなた方を愛するため、父親として愛を込めて諭すためであったと語ります。

  恐らくこう書いたのは正解だったでしょう。そうでなければ、彼らは恥をかかされたと思い、一層頑なになってパウロを攻撃したかも知れません。パウロ自身も、少し言葉がはやったと反省したのでしょう。ここでフォローした。

  「愛する自分の子供として諭すため」と言いますが、それでも今風に言えば、上から目線の言い方です。だが実際に彼らに伝道し、信仰に導いたのはパウロです。ですから、パウロは信仰の父、信仰の生みの親です。彼は何日も、何時間も掛けて、力を振り絞って彼らを育てたのです。

  とすれば、信仰の子である彼らを愛し、いとおしまずにおれるでしょうか。時間を掛けただけ、愛(いと)おしいものです。彼らが信仰の初心に立ち帰り、本当の信仰の道を歩いて貰いたくてたまらなかったでしょう。

  ところで先週の所で、パウロは自分たちがいかに困難な伝道をしているかを縷々語りました。だが、それは信仰の自慢話でなく、傲る気持ちでもなく語っていたのです。このような困難な場所でイエスが私たちと出会って下さり、私たちを執り成し、赦し、支えて下さったと証ししていたのです。生けるキリストが自分とどこで出会って下さったかというと、苦しい、どん底においてであったと証ししていたのです。それを曲げて取る所に彼らの問題があった訳で、悲しいことです。

  パウロはコリントの高ぶった人たちに、イエスを知った人間が、思い上がるなんて、もったいない話だと言いたいのです。「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼ぎ、侮辱され、迫害され、ののしられ。今に至るまで、世の屑、すべての滓とされています。」そんな所に置かれて、誰が叫び出さず、怒り出さず、怒鳴り散らさずにおれるしょうか。しかし、そんなどん底で十字架のイエスが私と出会って下さった。怒りで爆発しそうになっていた愚かな人間と共にいて下さった。これ以上に有り難い事はなかった。あなた方がこのような愛のイエスに留まらずに素通りして高ぶっているなんて、それは自分から百万の恵みを取り逃がすような事だよ。実にもったいない生き方だというのです。

  神の国は高価な真珠を畑に見つけた商人に譬えることが出来よう。彼は真珠を見つけるや直ちに持ち物をすべて売り払い、その畑を買うのであると、イエスは言われました。私たちが与えられたのは極めて高価な真珠だよ。偉ぶるなんて、もったいない生き方だ。またとない真珠を失う生き方だ。私たちには、膨れ上がるなどという生き方でなく、もっと貴い、価値あるノーブルな生き方をキリストから授けられている。その事に何とか気付いて貰いたい。パウロはそう語るのです。

  私たちは誰しも皆、愚かです。表面は穏やかに見えても、心の中は怒り狂っている場合もあります。怒りで爆発しそうになるのは、中心に未だ満たされないもの、解決されない闇があるからです。それが何かの拍子で爆発しそうになる。なりませんか?理性では止めようとするが、感情が爆発しかかる。それが私たち弱き愚かな人間です。だが、そこがキリストの十字架の死で決済されて行くと、胸に溜まっていたものが解決されて行くのです。「闇の中に、光が輝いている。闇はこれに勝たなかった。」君の闇は決して光に勝たない。深い所でイエスに出会うと、猛り狂いそうになる所に休みが入って来るのです。希望が生まれます。パウロは十字架の血で贖い取られて、それを経験した人です。

  実際、神は私たち世の無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者を敢えて選び、救い出して下さったではないか。神は、地位ある者を辱め、能力ある者を無力にするためであって、私もその一人なんだとパウロは言っているのです。

  パウロはそもそも人を責めようとして語るのでなく、父親が、どうにかして我が子に分かって貰いたくて、何とかして理解してもらおうとして相手を責める様な言い方になったが、いや、それはあなた方の顔を潰すためではなかったんだ。その事を分かってほしい。彼はそう言っているのです。

  「求めよ、さらば与えられん。門を叩け、さらば開かれん」です。パウロがしているのは、愛する自分の子として何とか分かって貰いたい、気づいて貰いたい、キリストに立ち帰って貰いたいと、何と言われようと、恥をも厭わず、言わば死にもの狂いになって彼らの心の門を叩き、求め、説得しているのです。「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」というような恩義を着せるようないい方をしたのは済まなかったが、どうしても分かって貰いたいからです。

  私は彼の粘り強さに感動します。こうでなくちゃあならないのだと、ここを読んで反省させられました。私は淡泊な人間ですが、ここまで粘り強い人間にならなければならないのでないか。淡白であるとは、自分から逃げることでないか。そんな風に反省させられました。

      (つづく)

                                     2017年5月21日



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