勇み立たず飄々と


                        アヴィニヨンのフェスティバルで
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                                           王様と死刑囚(2)― 下
                                           Ⅰコリント4章6-13節



                               (2)
  パウロは、「わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となった」と語った後、「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」と、少しずつテンションを高めて、心に溜(た)まったものが溢れ出て熱を込めて語ります。彼は、コリント人がいつまでも傲慢で、十分理解しない事にもどかしさを覚えて言葉を重ねたのでしょう。

  「私たちは弱い」のは、パウロたちが暴言を吐かず暴力を振るわないからです。謙遜を目指すので弱々しく見えたのでしょう。だが、「あなた方は強い。」彼らは強引で居丈高な強者の振る舞いをするからです。「私たちは侮辱されている」とは、卑しめられると言う意味ですが、低さはパウロたちの生活様式でした。

  「今の今まで」という言葉に、手紙が書かれた場所、そこでの「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいる」という伝道の実際生活が反映しています。着る物がなくとは、ボロをまとうと訳す英訳があります。身なりは質素で貧弱だったのでしょう。孫にも衣装で、デザインがいい上等の物を着るとやはり上等の人物に見えるものです。だがそれを知っても彼はそれをしなかった。

  「虐待され」とは、拳骨(げんこつ)で殴られることです。「苦労して自分の手で稼いでいます」は、天幕づくりで生計を立てて伝道活動をした彼のありのままの姿でしょう。苦労してとは、努力しても実入りが少ない様子を指します。侮辱されとは、罵られること、頭にくる無礼な事を言われることです。それにも拘らず祝福しとは、逆にそんな人をも祝福することです。迫害されとは、追い詰められて責められることです。罵(ののし)られとは、悪口を浴び、嘲られること。世の屑とか滓(かす)は、生ゴミや食べカスを指します。要するに世の人たちから受ける極端な侮蔑的な扱いと態度です。

  だがそれにも拘らず、祝福し、優しい言葉を返しながら、弱さと恥辱の中でも十字架のキリストに仕えて来たのです。だがそれは敗者の態度ではありません。キリストとの祈りにおける交わりが、その様な謙遜で喜ばしい、低い生き方を選び取らせたのです。キリストが既に死に打ち勝ち、復活されたからです。死から甦られたからです。侮辱も、罵りも、無礼も、虐待も、暴言も、いかなる力も、私たちを組伏せることが出来ないからです。

  9節で、「わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となった」とありました。見せ物とは元のギリシャ語でセアトロンと言います。この言葉から、英語のセアター、シアター、劇場という言葉が生まれました。劇場や映画館に行けば、コリント前書4章を思い出して下さい。

                               (3)
  パウロたちは、当時の全世界を駆け巡って伝道していますが、あちこちで、侮辱され、石をぶつけられ、反対される中でも、堅くキリストに踏み止まって証ししました。世に騒動を引き起こす疫病のような奴だと言われ、人を惑わし、たぶらかす者などと讒言(ざんげん)されて迫害されました。だが、それでも懲りずキリストの復活を証ししたのです。

  彼らは冒険家ではありません。リスクを好んで犯しているのでなく、単純に神を褒め称えることがリスクを冒すことになったのです。「神は、その独り子を賜る程に世を愛して下さった。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、リスクを冒された神の熱い真実な愛に応えて真実に応答しただけでした。

  黙示録に、ラオデキア教会に宛てられた手紙が記されています。「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。生ぬるいので口から吐き出そうとしている。」これは私たちにも言われています。冷たいか熱いか、はっきりした信仰を持ちたいと思います。

  白十字ホームの聖書の集いに、所沢に住むAさんという方が継続してボランティアに加わって下さっていますが、この数カ月ご主人の看病でお休みでした。連休の3日にメールを貰い開きましたら、その日の早朝1時5分に亡くなったとありました。忙しい中こう書いて来られました。「亡くなる4日ほど前に、夜中、突然寝言を大声で話し出しました。身内の者と話している様子で、一人一人とはっきり会話しているのです。父の為に言い訳し、兄姉たちと話し、最後に『神様、私は神様の言うようにしたかった。これからは好(よ)いことをしたいのです。神様がおっしゃるように、人に喜ばれることをしたいのです…』と。私は、主人が神様に逢えたんだと感じ感謝でした。A。」とありました。

  ご主人は臨終に臨んで、寝言の形で既に亡くなった両親のために弁護し、兄や姉とも永遠の別れを思って話し合い、もっと神様に従いたかったと信仰を告白されたのです。心にあふれるものが寝言にあふれ出たのでしょう。生ぬるくない、熱い信仰者でありたかったとの懺悔も感じさせる告白で、一人の真実なキリスト者でいらっしゃったと知りました。「死に至るまで忠実であれ」という謙虚な思いもどこかに響いています。

  「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています」とありました。愚か者とは、主のためバカ者になることです。パウロは宣教の愚かさに生きた人です。それに比べ、あなた方は賢い者、抜け目のない者になっていると言います。キリストにありながら、強者、知者、得をする者になりたがっている。だが、キリストは低く愚かになられたのです。だから自分たちも愚かに、低くなったのです。ところがあなた方は、キリストの中で賢い者、強い者、高い者、尊敬される者となっているのです。キリストは低くなられたのに、あなた方は高くなり大きな存在になろうとしている。そこに大いに疑問点があると言うことです。

  35才頃からずっと私を惹きつけて来たテゼ共同体は、貧しくなることを恐れず、財産を保証しようとする事から自由になる生き方を教えてくれました。彼らから大胆な生き方を教えられました。富む者は守りの姿勢に入ります。私の知る何人かの億万長者はそうなりました。富の力に縛られて自由になれなかったのです。しかし、富や出世から自由で、勇み立たず飄々と生きるテゼのブラザーたちの生き方から、測り知れない力が絶えず湧いていることを教えられたのです。それが今日も世界の若者、働き盛り、高齢者をも惹きつけているのです。

  日本の多くの若者は保守的になっていますが、それと正反対です。そのためか、韓国やフィリピンや香港に比べ日本の若者は余りテゼに行きません。人はその一生をどう生きるのか。安全志向で、保守的に暮らしを守って、自由を犠牲にするのか。生ぬるい生き方からは真に創造的な新しいものは出て来ない気がします。失っても、大胆にリスクを犯して行く。そのように生きる時、何か真に新しいものが登場します。それに対して、富と豊かさの生ぬるさの中に身を置くと、人は曲がった道に逸(そ)れ易いのは、古今東西今も昔も変わらない真理です。

  イエスは、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われました。このみ言葉は、当時も今も、永遠の真理です。


       (完)

                                         2017年5月14日



                                         板橋大山教会 上垣 勝



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