王様と死刑囚
アヴィニオンのフェスティバル
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王様と死刑囚 (下)
Ⅰコリント4章6-13節
(3)
パウロはこう言います。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。」これは彼らへの鋭い皮肉です。
あなた方は、もう満ち足りている、既に大金持ちになり、勝手に王様気取りになっている。これは誇張した比喩ですが、私たちや他の人たちを置いて、自分だけで良い気になって、我がもの顔に振舞っていると言いたいのでしょう。
ここにも、教会をキリストの体と考えない者たちの利己主義があります。コリント教会の一部の者は、パウロが伝道し、彼らもパウロから導かれたのですが、パウロの教えもそっちのけにして、自分たちが王様気取りでいる。
王様気取りと本当の王様の違いは何でしょう。パウロは、彼らが本当の王様になって欲しいと言います。聖書では、真の王はダビデに象徴され、イエスにおいて成就されて行く、愛と慈しみに満ちた王です。低い者をも見下げず、富によって裁きを曲げぬ、公平な王です。慰めに満ち、真実で、人情を備えた、神の前に謙る王です。だが王様気取りの王は、愛の王でなく、勝手に自分を誇る王であり、偽の王、裸の王様です。
先日、新板橋方面に向かって白山街道をウオーキングしていましたら、一風変わった3人連れが前から近づいて来ました。子どもが先頭を歩き、すぐ後ろを女の人、その後ろを男の人が歩いていました。一風変わっていたので、眼を凝らして近づく彼らを見て歩いていましたら、女の人はほぼ子どもの横を歩き白い杖を左右に振っています。その後を、男性がやはり白い杖を持って歩いていました。
近くに来て、2人の大人は全盲の方で、小学生程の小柄な女の子が先頭に立ち、女の人が子どもの肩に手を置き、その後ろから男の人が女の人の肩に触れて歩いていたのです。
子どもが先頭を歩く親子連れの一家でした。胸に熱いものが込み上げて来て、歩みを緩めて、遠ざかる彼らを見送りました。
かなり遠ざかってから、この時を逃せば後悔すると思って、随分離れてしまいましたが、戻って行って、「こんにちは。お子さんですか。偉いですね」と明るく声を掛けました。お父さんは45、6才の人で、やや警戒する様子でした。道で知らない人から声を掛けられたことが殆どないのかも知れません。
短い会話でしたが、女の子は5年生でした。引き締まった賢そうな顔つきの子で、北区にお住いのようで、北区から仲宿まで歩いて来たのでしょうか。私は仲宿の入り口まで追い掛けたのです。お父さんは普通のサラリーマンと言っていました。小さい時から親の世話をしているので、別に大した事ではないと、お父さんは謙遜して言っていましたが、私は本当に驚き、その日一日中はその子のことがずっと頭にありました。
小さい子どもでも、大人たちを導くことが出来、一家を支えることが出来るのです。遊びたい盛りですが、腹を決めれば、大人顔負けのことが出来るように、神様は5年生でも私たち人間に、こんな力を与えておられることに感動しました。
王様気取りで満足し切っていてはいけないのです。ましてや尊大な王様になってはならない。いや、本当の王様になって欲しい。また公平な王、見識がある愛の王。低く貧しい者を卑しめず、いや、イエスのように低くなることを恐れず、徴税人、遊女、ライ者、貧しい者、卑しい者と交わり、共にある王、勇気を持ち、正しい裁きをなす愛の王です。そうすれば、周りの者も一緒に王のように気高い人を目指すでしょう。だが自ら高ぶり、中身のない張りぼての裸の王様では、何ら人々の間に希望を作り出せないでしょう。
その様な裸の王様に対して、パウロは対照的な死刑囚を持ち出しています。自分たちは一切を剥ぎ取られて万民の前に見せ物となった死刑囚のようなものだと、誇らしく力を込めて語ります。では死刑囚のどこに誇らしさがあるのでしょう。
今日はここまでで終わり、残りは来週にお話し致しましょう。
(完)
2017年5月7日
板橋大山教会 上垣 勝
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