利己主義を育む土壌


バイオリンの演奏旅行で出掛けている大山教会のAさんがデュッセルドルフの日本人教会に出席したそうです。その後ベルリンに移動し、今日は寒さで震え上がっているとメールをくれました。
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                                          王様と死刑囚 (中)
                                          Ⅰコリント4章6-13節



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  先程は今日の聖書個所から子ども達にお話し下さって、私の話の一部を既に話して下さったと思います。ありがとうございました。

  さて、今日の最初の所に、「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶためであり…」とありました。

  パウロは3章で自分とアポロを持ち出して、教会とは何かを語るために、植える者や育てる者の譬えを、また建築家のように土台を据える譬えを語りました。これらは自分たちの実例に倣って、コリント教会が、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためですと語っています。

  この言葉は諺です。出所は不明ですが、パウロが言わんとしているのは、あなた方は聖書が説いていることを越えない事、古い言葉で言えば分限を逸脱しないようにということでしょう。それは、「だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです」とあることから分かります。

  パウロは、コリントの一部の人が、自分の分を越えて思い上がっていることを問題にして来ました。一人を持ち上げとありますが、自分を持ち上げるとマズイので、人に持ち上げられるのを好んだのでしょう。万国共通です。そして他の人をこき下ろし、ないがしろにする人がいたのです。

  6、7節で2度、「高ぶる」ことがないようにと述べますが、コリント教会では、知識を持ち、富める一部の者の高ぶりが課題であったからです。一部の者と、それに迎合して付和雷同する者でしょう。

  パウロは、教会を、キリストを中心とする家族と見ます。家族には色々な人がいる訳で、同じ親から生まれたのにこれだけも違うのかと驚くような兄弟や姉妹もいます。だがそれぞれの個性が生かされれば素晴らしいし、弱い者を強い者がかばって、労り合えば美しい群れになりますが、互いにいがみ合い、喰い合っていれば、とんでもない醜い集団になります。教会はキリストを頭(かしら)とする体であり、頭を中心に、手足や目や耳、口などが互いに補い合い、助け合い、弱い所をカバーして生きる時に、この共同体は価値ある存在になると、12章辺りで語っています。

  ところが、高ぶる者や付和雷同する者は、教会を家族と考えないのです。むしろ似た者同士が固まって他を排除する。仲良しクラブを作って、外の者たちを中傷し合って盛り上がる。教会人とは言え、そうなれば、キリストを中心としないまさに人間臭い集団です。これではキリストの血で贖い取られた神の教会とは到底呼べないものになります。

  ですからパウロは、「だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです」と語ったのです。これは教会だけでなく、あらゆる集団においてある程度あてはまるでしょう。

  そして更に一歩突っ込んで、7節で、「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」と語ります。

  「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです」と言っていますが、本当は人として「優れた者」であるかどうか分かりません。ただ高ぶっているだけで、周りの者が持ちあげているだけかも知れません。だが、今はその事は問題にしないで、誰があなたたちを、他の者たちより優れた者にしたのですか、と問います。

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  そして、「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」と問って行きます。先週、子ども達に話した時に、私たちの体は皆、神様から頂いたもので、私たちの命は本来、神から貸し与えられているもの、言わば無料のレンタルだと申しました。

  私はこの年になって、益々、命は自分のものでないと実感しています。若い時は違いました。しかし今、この命、また自分が育った環境も、一切は神から一時的に貸し与えられたものでないか。それぞれの命は、貸し与えられたものである。そうなら、自分の力も含めてこの命を、神にしっかりお返ししなければならない。私物化してはならない。自分だけが得する、私用にばかり使ってはならないという思いが一段と強まっています。自分だけ得して何になるかと思います。それは利己主義だと思うのです。創造主と被造物とか、個人的視野でなく現代人はもっと大きな視点を持って生きなければならないと思うのです。

  今の社会は個人主義自由主義、利己主義が盛んですが、これが本来の人間社会なのかということです。こんな事をしていて、一体人類はこの先続くのか。人類はもう少し進化する必要がありはすまいかという所まで、考えは発展します。

  いずれにせよ、パウロがここで問題にするのは、自分の力で全てを得たかのように誇る人たちの、重大な過ち、高慢です。人の心に深く巣食う悪しき考えです。神からの離反です。

  ですから彼は、「もし頂いたのなら、なぜ頂かなかったような顔をして高ぶるのですか」と迫るのです。どうして、自分の意志で生まれ来たかのように誇り、自分の意志だけで人生を築き上げて来たかのように誇るのかと問うのです。幸運もまた神の配慮です。

  人間は自然的傾向が強く、自分はただ自然的にまた偶然に生まれた。偶然生まれたが、私の才覚でここまで築きあげ、人生を切り拓いて来た。自分は誰にも借りはないと考える傾向が強くあります。

  私の命は神と関係ない、偶然だということが、一番利己主義に通じやすい主張です。都合よく利己主義を主張し易い。これは弱肉強食の世界、競争社会の価値観、そして個人主義へとつながっています。日本社会が自然主義的な価値観の上に成り立っていることが、利己主義を育む土壌になっています。

  教会と社会では場面が違いますが、そこに問題があるとパウロは言うのです。「高ぶる」という言葉は、新約聖書ではほぼこの手紙だけに出て来ますが、元は、膨れること、膨らますことです。膨れ上がって慢心し、忘恩的になり、不遜になる事です。

  コリント教会に問題を起こす高ぶった信徒たちは、自分の賜物は全て神からのものという信仰がまだ作られていないのです。だから慢心と高ぶりが生まれたのです。

  別の角度から言いますと、彼らは祈りを通したキリストとの親密な親しい交わりがまだありません。信仰に入ってまだ日が浅く、そこまで育っていない。未だ、祈りを持って親しくキリストと交わったことがないでしょう。低くなって、疎外されている人の友になられたキリストがどんな方か、祈りを通して親しく知っていれば、ここまで高ぶれません。しかし神を頭で知っただけで、キリストの心を知る由もなく、自分のための神であり、神のための自分という所まで達していないので、ご利益信仰の域を出ません。しかし、信仰は祈りの内に神に何でも親しく打ち明け、相談し、神に道を示されて歩もうという生き方です。だが彼らはまだ、キリストはよそ者で、生き方を変えられるほどにならないのです。

       (つづく)

                                         2017年5月7日



                                         板橋大山教会 上垣 勝



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