希望を生きる勇気
駅前に出るとアヴィニヨンの城門が現われました
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お裁き下さる方 (下)
Ⅰコリント4章1-5節
(3)
彼はやや極端に見えますが、「主が来られる迄は、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」と語ります。むろん何も判断しないとか、決定しないで置けと言うのではありません。彼はそんな無責任な人物ではありません。彼は色々な事を判断し、決断し、決定しています。
「主が来られるまで」とは、しかるべき時とか、満期の時、決定的な日という意味で、最後の審判を指します。主が来られるまで、最終的な裁きは待てと言うことです。最後的判決は人間を越えているという見方です。最高裁判決でも、それはその時代の最高裁判決であって、時代が変わればコロッと変わるからで、彼は人の判断の相対性、限界を知っているのです。
だが、「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」どんなに秘密を保護しても主が暴露され、個人的陰謀も政治的陰謀も主は暴かれるのです。それは同時に、悪い企てだけでなく、善い企ても光の中に出されるのです。裁くだけでなく、神は「おほめ」下さるのです。「おのおのは神からおほめにあずかります」とある通りです。
一切の秘密を白日の下に晒して裁いて下さる。闇の中でなされた秘密や取引も全て明らかにして下さる。そこに確かな希望があるのではないでしょうか。パウロは今日の個所で、希望の福音を語るのです。希望を告げる福音です。最終的にお裁き下さる方がおられるから、心に平和が生まれるのです。心がスッキリするのです。楽になるのです。気が晴れる。すると希望が生まれて、よし生きようとなり、このお方にお従いすればいいのだと思うと喜びが生まれるのです。
この方から与えられる心の平和が私たちの心の中核を占める時、それに支えられて喜びに向かって進むことが可能になります。この平和が不安の深い淵をも埋めてくれるからで、不安の深淵が埋められると闇の中でもいきり立たず、焦燥感に駆られず、醒めた目を持って希望を目指して生きる勇気が生まれます。いや、希望を創り出す人にもなるでしょう。
旧約の雅歌1章2節をご覧ください。ソロモンの雅歌とあり、「どうかあの方が、その口のくちづけをもって、わたしに口づけしてくださるように」とあります。カトリックのあるシスターが、「あの方は、ご自分で幾度も口づけして下さるでしょう」と艶(なま)めかしい訳をしています。雅歌には少し美しい艶めかしさがあります。
この歌を歌うのは花嫁あるいは若い女性で、あの方とは花婿または恋人でしょう。あのお方は真実な、恋しい愛の人です。その人が私に甘い口づけをして下さるようにと願うのです。あるいは、「必ず口づけをして下さるでしょう」と信じて心から愛の歌を歌うのです。ただ、これらは比喩であって、真実な恋しい方は主なる真の神様を、花嫁は教会やイスラエル、また神を信じる人たちを指しています。では、この口づけとは何ぞや。口づけは「神の言葉」を指すのです。神は、甘き愛の口づけで愛を語って下さると言うことです。神は口づけして愛の言葉をそっと囁かれるのです。雅歌はリアルな真実さをもって神の愛を語っています。
神は真実な愛を持つ方です。その愛は確かで、信頼できるものです。この信頼でき、最後的にお裁き下さるお方がいるから、私たちの心の深みに平和が訪れるのです。
(完)
2017年4月30日
板橋大山教会 上垣 勝
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