自分をも裁かない


                           野外劇場の俳優たち
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                                           お裁き下さる方 (中)
                                           Ⅰコリント4章1-5節


                               (2)
  難しいですね。今日の話は抽象的で子どもには難しいです。特に「神の秘められた計画を委ねられた」なんて、大人だって難しい。だから神様からの宝物だって言い換えました。

  さて1節で、キリストに仕えて、神のご計画という深い真理を頂いている私たちにとって大事なのは、忠実である事だとありました。その仕事にごまかしなく、誠実に、正確に行うことです。管理する者が責任放棄して無責任なら、せっかく神から委ねられたものも無駄になります。

  管理者とあるには、創世記に、エジプトに売られて行ったヨセフが、侍従長ポティファルに見出されて家の管理一切を委ねられ、財産管理も任せられましたが、その様な管理者。イギリスなどでは執事と言われた人を指します。荘園などの一切を管理する人です。また仕えるとは、古代ギリシャガレー船の最下段で舟をこぐ漕ぎ手のことで、三段櫂船の一番下で一番辛い漕ぎ手のことです。奴隷などがあてがわれました。

  神に仕えるために身を尽くすことです。例えば、今、アメリカの新大統領就任以降、とんでもない出まかせを言うので、事実であるニュースと嘘のニュースの見分けがつかなくなっていると言いますが、人の噂や批判を耳にしてもそれに惑わされず、神に対し、真理に対し忠実であることが、神の奥義を管理し、それに仕える人に求められる中心的な事だと言うことです。人間は惑わされるとダメです。やはり真贋を見分ける眼を持って真理のために身を尽くすのでなくてはならない。

  では、パウロはどれ程神に忠実であるか。3節以下で、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません」と語ります。凄いと思います。

  キリストへの忠実の程度ですが、あなた方から問い質(ただ)されたり、取り調べを受けたりしようと、この世の法廷で裁判にかけられようと、何ら意に介さない。ただキリストに忠実であることだけが大事だと。いや、自分は自分をも裁かないと、一歩踏み込んだ言い方をしていきます。

  良心的に何もやましいことがなく、後ろめたくないし、自分の潔白をはっきり証明できるが、それで「私が義とされているわけではありません」と語るのです。即ち、自分の眼では自分は義である、正しいと思う。だが、それで神の目から見て絶対的に義しいかというとそうではないと語るのです。パウロという人は、自分自身に対しても公平で、同情しません。自分をも突き放し、相対化して見ているのです。

  ユーモアと言うのはおかしさですが、自分を突き放して見ることから生まれるおかしさです。自分に余裕を持つ態度です。

  パウロは大きな包容力を持っていましたが、彼に包容力があるとすれば、その源はここにあります。ここに寛大さの源があります。彼の温かい目は、一切の裁きを主なる神に委ねる所から出ています。

  人間を越える方を知っているからです。「わたしを裁くのは主なのです。」これが彼の生きる根拠です。私を取り調べ、問いただすのは主である。私を最後的にお裁きになる裁判官は主のみ。いかなる者も私の最後的な審判者ではない。この方だけが私の命であり、私の命を最終的に握っている方だという告白です。

  これは人の意見に耳を貸さないと言う生き方でなく、そういう石頭の頑固者はざらにいますが、人の判断を超えた方の前に服す真実な在り方です。地上で誰に覚えられるかは問題でなく、主なる神の前に覚えられることこそ重要という在り方です。

  日本社会には、まだここまでの義なる絶対的な唯一の神、最後的に命を握るお方を仰ぐ思想は定着していません。しかし真理の前にのみ服する、この思想が生まれなければ、人の目を気にして生きる社会は改善されません。

  戦争を知る人が少なくなっていますが、戦後、学校で教科書に墨を塗らされました。昨日まで真理であったことが今日から真理でなくなったのです。昨日まで精神注入棒を持って軍国主義を説いていた教師が、今日からへらへら笑う民主主義者に変貌するのを見ました。何が最高の法廷か。主なる神、ただキリスト以外に永遠に変わらぬ最高の法廷はないとパウロは考えるのです。そしてキリストに従う自分自身も、最終の法廷ではないと述べたのです。

      (つづく)

                                         2017年4月30日



                                         板橋大山教会 上垣 勝



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