ミュシャの絵の前で


                        ミュシャ展で(本文の一枚の絵とは別)
                                ・


                                           災いを恐れない (上)
                                           詩編23篇4節
                                           ヨハネ12章46節


                               (序)
  今日も子ども達と礼拝が出来ました。ヤコブという人間は実にずるいですね。双子の兄と父親をあんな騙し方をしたんですが、神に祝福されるんです。とんでもない人物ですね。信仰というのは何なんでしょうか。ただ彼が祝福されるには、あの後、叔父のラバンから何度もとんでもない騙され方などをして非常に苦労しますし、兄との再会にはどんなに気を使うか、生きた心地がしなかったでしょう。

                               (1)
  さて、先程交読しました詩編23篇に、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」とありました。これは今日の総会で正式に決まりますが、5月から8月まで、礼拝の最初に読まれる招きの詞(ことば)として皆さんが選ばれたみ言葉です。

  何人もの方がこれをお選びになったのは、この聖句を聞いて一週間を始めたいと願っておられるのだと思います。

  一寸(いっすん)先は闇と言います。5月以降、私たちがどういう状況に置かれるか誰も知りません。ある人は順調でしょうが、別の人は辛い時期や苦しい時期を迎えるかも知れません。だが、たとえそんな事になっても、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」という言葉から慰めを得、勇気を授けられて歩んで行きたいということでしょう。その時には、災い転じて福となると言うか、却って信仰が深められ、恵みの時にして頂けると思います。

  「死の陰の谷」とは、死の峡谷、両側から死が押し迫って来るような、切り立った、どん詰まりに見える狭い峡谷のことです。絶体絶命の場所と言ってもいいでしょう。この道を来たが、酷い試練や災いが起こりそうで恐怖が伴うのです。これを来て良かったかと疑念が生じる場所です。

  だが、この信仰者は、そこに主なるあなたがいて下さるので、災いを恐れないと語るのです。彼は腹を決めています。腹が据わると、その様な場合でも余裕が生まれます。痩せ我慢ではありません。彼がいつもこのお方を仰ぎ、このお方を求め、このお方から希望を授けられたからです。しばしば、このお方を見失ったかも知れません。疑ったかも知れない。だがこのお方は私を見失わず、いつも私と共におられたのです。私の真実というより、もっと確かな主の真実があったからです。

  古い方は、Foot Prints 足跡(あしあと)という詩をご存知の方も多いでしょう。

  「ある夜、夢を見た。私は、主と共に渚を歩いていた。暗い夜空に、私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に2人の足跡が残されていた。私の足跡と主の足跡です。だが、人生の最も辛い時期の光景が映し出された時、私は、砂の上に目を留めたが、そこには一つの足跡しかなかった。人生で一番辛く、悲しい時だった。このことが私の心を乱したので、その悩みを抱いて主に尋ねた。

  『主よ。私があなたに従うと決心した時、あなたは、すべての道で共に歩み、私と語り合って下さると約束されました。それなのに、一番辛い時に、一人の足跡しかなかったのです。 一番あなたを必要とした時、なぜ私を捨てられたのか、私には分かりません。』すると主は、静かに言われた。『私の大切な子よ。私は、あなたを愛している。あなたを決して捨てはしない。ましてや、苦しみや試練の時に…。足跡が一つだった時、私はあなたを背負って歩いていたのだ。』」

  「私は災いを恐れない」と語るのは、私がこの方を見失っても、この方は私を見失わず、いつも共におられるからです。主が傍らに見えない時は、主が私をおぶっておられる時だからです。この詩編はその事を語っています。

  今、六本木の国立新美術館で「ミュシャ」という画家の展覧会をしています。無料券を頂いて見て来ました。行って初めて知ったのは、ミュシャは百年程前のチェコの画家で、アールヌーボーの人物画家として華々しく活躍しましたが、人生の後半生にパリから祖国に戻ってチェコスラブ民族の歴史的場面を描いたようで、縦横8m程の巨大な油絵が20点ほど来ていました。驚いたことに、描かれていたのはプロテスタントの先駆者となり、カトリックによって火あぶりの刑に処せられたヤン・フスや、彼の影響下で活動した人たちでした。ルターの宗教改革より約百年前の人たちですが、牧師やキリスト者なら一見の価値がある作品です。

  彼の死後、フスの名に因んだ、フス戦争というのが起こりますが、これはフスが起こした戦争でなく、ローマ教皇がフス派に仕掛けた戦争です。

  ミュシャが描いた巨大な一枚の絵の前で暫らく釘づけになりました。戦争の場面で、負傷兵たちがあちこちに倒れ、憎悪の眼差しで敵への報復を唱えています。そこへ伝道者が来て報復をやめよう、平和を作り出そうと説くのです。フス派の人たちでしょう。ところが、その伝道者めがけて一人の負傷兵は拳骨を浴びせるのです。多くの味方が傷ついている時、平和主義を説く人は少数です。笑い物にされ、怒りを買います。だが伝道者は、それでも恐れず、剣を鋤に打ち直そうと呼び掛けて、平和を説いている場面でした。

  多勢に無勢です。だが一人であっても彼は説き続けるのです。イエスの福音を信じる者は少数者です。それでも説き続ける場面を描くことによって、ミュシャは世界に訴えたかったのでしょう。

  画家は何を考えて描いたのか知りませんが、自国の戦争の歴史を振り返って、草の根でコツコツ働くこういう少数者がいて、やがて歴史は変えられて行くのだというメッセージだと思いました。戦争の準備をする今の世界で、どう生きるのか問われる作品です。

  「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。」こういう高邁な魂を持って生きる者たちの貴さです。「あなたがわたしと共にいてくださる」と、神への信頼を持って生きる人々の存在の重要さです。

      (つづく)

                                         2017年4月23日



                                         板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・