一抹の寂しさ


                             参議院に行っちゃいました
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                                         捨てたもんじゃない (中)
                                         ルカ17章11-19節



                                 (2)
  だが、イエスは彼らを少しも忌み嫌わず、彼らに近づいて、異形の人となり果てた彼らを人格を持つ人間として一人一人に接して治されたのです。イエスの愛はそこまで愛する絶対的な愛でした。他の個所では、イエスが彼らに手を置いて癒されたともあります。毒性の強い皮膚病患者を神の愛をもって抱きしめて癒されたのです。イエスの中にいかに熱い愛がたぎっていたかの証拠です。断固、彼らと共に在ろうとされたのです。社会が君たちをいかに酷く扱い、蔑み、疎外しても、君たちと私は断固共にいる。疎外しない。あなた方の友だ、味方だと、神の愛を行動で示されたのです。

  そして、「祭司たちに、体を見せなさい」と言われました。当時、祭司は公衆衛生の一部を担っていて、伝染性の病気か否かを見極めました。そして治ったとなると、無事放免されて社会に戻れました。イエスは社会的手続きを経て、彼らを社会復帰させようとされたのでしょう。

  ところが、彼らがそこに行く途中、清くされ、病が癒されたのを知ったといいます。皮膚感覚が戻ったのか、らい菌が視神経を侵していたが、視力が回復したのか、詳細は分かりません。それで、一人が直ぐイエスの所に走って来た。「その中の一人は、癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」とある通りです。

  その喜び様は大変なものだったでしょう。神の偉大さを大声で讃えながら戻って来て、イエスの足元にひれ伏して感謝した。最高、最大の感謝の表現でしょう。

  だが10人が癒された筈なのに、彼1人です。それを見てイエスは驚き、清くされたのは10人ではありませんか。他の人はどうしたのです。ユダヤ人でなく、サマリア人のあなた一人が、神をほめたたえるために戻って来たのですか。彼らはどこへ行ったんですかと不思議そうに問われた。

  そう尋ねられましたが、それ以上9人を追及していません。これは大事に思われます。イエスはいつまでも一つの事にこだわられないのです。口を開くと、人への恨みやつらみを言う人々がいますが、そんな事をいつまでもしていると人生はそれで終わり、生ける屍みたいになりかねません。

  咎めておられません。だが残念だったでしょう。彼らはこれまで言わば死んでいたが、生まれ変わったのですから、神を賛美し、生かされていることを喜び、神に感謝して新生した人として社会復帰し、その後の人生を生きて行ってほしかったでしょう。肉体の回復だけに満足した彼らに、一抹の寂しさを感じられたでしょう。

  だが、それはその人たちにお任せになり、このサマリア人に、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って帰されました。神が君と共におられる。神に寄せるあなたの信頼があなたを救った。こころ安んじ、安心して行きなさいと言って元の社会へと社会復帰させられたのです。

                                 (3)
  この出来事は一体何を語るのでしょう。


        (つづく)

                                         2017年4月16日


                                         板橋大山教会 上垣 勝



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