国境地帯のイエス


                              ミュシャ展〈ヒヤシンス姫〉
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                                         捨てたもんじゃない (上)
                                         ルカ17章11-19節



                                (序)
  毎週、こんな素敵な礼拝を子どもたちと持つことが出来て、何て幸せなんでしょう。毎週のお話が個性的で、もうこうなったら毎週、聞き逃せません。

  それに、今、マルコ16章からイエス様の復活のお話をして下さいましたが、Aさんが5年前に初めて日本に来られた時、片言の日本語しか話せず、本当に不安だったでしょうね。それが日本で洗礼まで受け、子ども達と皆さんの前で、イエスの復活の素晴らしいお話をなさるようになっているのです。こんなことが起こるとは、本人もよもや思わなかったでしょう。神が為されることは美しいです。来年は就職で社会に出て行かれますが、それからがまた楽しみです。

  さて、今日は、普通イースターに読まれる個所を私は取り上げませんでした。これはイースターを軽く見るからでなく、イエスの復活というキリスト教信仰の根幹に立って、私たちが今日をどう生きるかを、皆さんと考えたいからです。信仰の根本に基づいて今日どう生きるかです。

                             (1)
  11節以下に、「イエスエルサレムへ上る途中、サマリアガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている10人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて…」とありました。重い皮膚病とあるのは、ギリシャ語でレプラとかレプロスという言葉で、猛烈な毒性の皮膚病、有害で酷く恐れられた皮膚病を指します。前の口語訳は「らい病」と訳していました。皆さんの新共同訳聖書でも最初に出た訳は「らい病」となっています。その後、これは差別用語だという議論があり、再版で「重い皮膚病」と改めました。

  それはともかく、まず大事なのは、イエスは「サマリアガリラヤの間を通られた」とあることです。ここはもっと明確に訳すべきだと思いますが、イエスは2つの国の国境地方を通り、国境を越えて行かれたという意味で、その地で重い皮膚病の人たちの出迎えを受けたのです。これは、この問題の中心を明らかにしています。

  彼らは人から忌み嫌われ、町から離れた国境地域に住まざるを得なかったのです。当時のユダヤ教は、彼らは宗教的に汚れた者として追放しました。いや、日本ではつい50年ほど前まで、彼らを人里離れた地に隔離し、らい病は自己責任か先祖の因縁や祟りであるかのように酷く忌み嫌いました。

  社会から後ろ指を指された彼ら10人は、「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて」とあるように、彼ら自身が、最近あちこちで使われる言葉を用いますと、色々のことを忖度(そんたく)して、遠くからイエスに声を掛けたのです。彼らも社会の掟に縛られ自由でなかった。

  だが余りの酷さに、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と助けを求めたのです。この言葉に、彼らに負わされた運命の重圧、厳しさが見て取れます。「私たち」とありますから、彼らは助け合って共同生活をしていたのでしょう。同病ゆえに民族の壁を越えて共同生活をした。今日は触れませんが、ここには、病や苦しみから来る、民族や国を越える共同性という大事なテーマが示唆されています。

  聖書において重い皮膚病、ハンセン氏病は大事なテーマですから少し詳しく申しますと、これはらい菌が皮膚の下の神経を冒して感覚を失わせ、傷ついて出血しても気づかず、そこからばい菌が入って腐ります。腐れば手足を切断したり、鼻や耳や口元も腐って、のっぺらぼうの顔になったり、異形の人になって酷く恐れられました。日本では家名が汚れると、戸籍から抹殺されました。昔は重病の人を化物のようだと気味悪がられ、忌み嫌われ、犬ころのように捨てられて誰も寄りつかなかったのです。私たち人間はそんなことをするわけで、他人事でなく胸が潰れる思いがします。まぶたが垂れ、口が歪んで鼻がないといった顔は、本人が見ても他人が見ても嫌なもんで、悲惨なめを経験されました。

  これは架空のことでなく、現実です。それで、10人は社会の掟に縛られて、イエスに近づくのを酷く躊躇し、遠くの方で立ち止まって、大声を出して呼び掛けたのです。

                                (2)
  だが、イエスは彼らを少しも忌み嫌わず、彼らに近づいて、異形の人となり果てた彼らを人格を持つ人間として一人一人に接して治されたのです。イエスの愛はそこまで愛する絶対的な愛でした。他の個所では、イエスが彼らに手を置いて癒されたともあります。毒性の強い皮膚病患者を神の愛をもって抱きしめて癒されたのです。……


        (つづく)

                                         2017年4月16日


                                         板橋大山教会 上垣 勝



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