意志と意志の持続


           毛ガニのエラが乾燥しないよう、たっぷりおがくずがまぶされていました
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                                           探せ、見つかる (中)
                                           マタイ7章7-12節


                               (2)
  子どもたちとの礼拝は新鮮ですね。楽しいです。

  さて、「為せばなる」と言った人がいます。江戸時代の中頃の上杉鷹山(ようざん)という大名、山形県米沢のお殿様です。ところが米沢藩には当時、今のお金で200億円という莫大な借金があったのです。200億円というと、今、メルセデスベンツの高級車だと1000万円程しますが、それを2000台買えます。そんなに借金があったら米沢藩は滅びてなくなるでしょう。

  それで鷹山は家来に節約を命じ、農業も商売もさせた。武士ですが肉体労働で働かせた。皆に命じただけでなく、自分も田畑で仕事をして働いた。お殿様だが農民のように肉体労働をした。そして上杉鷹山の子どもの、子どもの、子どもの、子どもの、子どもの、子どもの、…11代後の子どもの時代になってやっと200億円の借金を全て返して、国を滅亡から救ったのです。

  求めよ、与えられる。求めないと与えられません。7節は、明確な意志を持ちなさいと語るのです。そして次の8節は、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と、同じ繰り返しのように聞こえますが、原文は繰り返しでなく、求め続ける者、探し続ける者、門を叩き続ける者にはとなっていて、これは確固とした意志の継続を語っておられるのです。

  1、2回求めた、探した、叩いたではダメで、困難に直面すれば、そこで立ち止まって腹を据えて求めて行くのです。すると誰でも、与えられ、見つけ出し、閉ざされた門も開かれるのです。この「誰でも」は大事です。はっきりした意志を持ち、継続して求めて行く。すると例外なく門は開かれるのです。遠慮していてはなりません。押しの強さが大事です。すると叶えられるのです。

  天の父なる神は気前良い方です。優しく、真実な方で、願いを聞いて下さる。神に求め、門を叩くのであって、神を試すのではありません。切に求め、探し、願うのです。そうすれば神は応じて下さる。ですからイエスは、信頼できる天の父への信頼を説いておられ、疑ってならぬ事、疑う必要がない事が言われているのです。

  疑えば誰でも沈没します。バプテスマのヨハネヘロデ王に斬首されると、イエスはただ独り山に退いて祈られました。その間、先に船出させられた弟子たちは、嵐のガリラヤ湖で逆風に悩ませられて夜通し漕ぎ悩みました。そこへイエスが波の上を歩いて近づいて来られたというのです。

  弟子のペトロは幽霊だと思って怯えます。後から来たイエスの小舟が転覆して、幽霊になって近づいて来たと思ったのでしょうか。何しろ波の上を歩いて来たのですから。だが、彼は勇気を奮い起して、「私に命じて、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」と求めると、「来なさい」と言われるので、彼は舟べりから水の上に降りて歩き始めたのです。だがその時風を見て怖くなり、沈みかけたとあります。

  彼はイエスの言葉に信頼して、水の上に足を下ろして数歩歩き始めたのですが、強い風に煽られ、イエスから目をそらして溺れかけたのです。イエスが直ちに手を差し伸べて支えられたとありますが、イエスから目をそらし、疑い始めると私たちは沈み始めるのです。

  与えられるためには、こちら側の求めが真実であらなければならないのです。与えられなくてもいいや。他のもので代用すればいいやと思うような不真実な気持ちであってはならない。神をなめてはならないと言う事です。

  求めよ、探せ、門を叩け。これは、神への祈りのあり方です。ある人は、ここは祈りのマグナ・カルタ、祈りの大憲章だと言っていますが、祈り続け、求め続け、叩き続け、根気よく続けて諦めない。すると必ず神は応えられるのです。

  イエスは分かり易い譬えを語られました。我が子がパンを欲しがるのに、子どもを騙(だま)して、パンに似た固い石ころを与える親はいない。魚を欲しがるのに、子どもを騙して蛇を与える親もいない。卵を欲しがるのにサソリを与える親がいる筈がない。サソリは休む時は尻尾とハサミを隠して、体を卵のように丸めて寝ます。どんなに悪い親でも残酷にも我が子を騙す親はいない。ましてや、父なる神は、求める者に善い物を下さらない筈がないと言われたのです。本当だと思います。

  ただ、祈りを考えると、全ての事に時があります。先日の北支区総会で、長年用意して来たある議案が、ごく僅かの差でもう一度常任委員会に付託して練り直すように決まりました。それを上程した委員会の人たちはガックリ来たようで、否決されたも同様だと言って嘆いていました。しかし私が思ったのは、時が満ちなかったのであって、これまでの努力が無駄であったのではないと言う事です。

  口語訳の伝道の書に、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」とあります。ここにある時とはカイロスという、機が熟した最適の時です。時が満ちないのに幾ら焦っても実現しません。私も残念ではありましたが、長年の努力が水の泡になったのではないと委員会の人たちに励ましのメールを送りました。

  神が聞いて下さる時があるのです。もし、何もかも思いつきの願いをそのまま聞かれるなら、必ず最悪の結果が起こるでしょう。何でも一時の思いも神が叶えられるなら、それは甚だ危険で私たち自身を滅びに導くかも知れません。
  
  だが、神が導かれるのは全ての事に時があり、その時に適う時にはまことに美しいと言う事。そしてその事を知ることにより永遠を思う思いを授けられるという事です。しかも神の為されることを、初めから終わりまで誰しも見極めることは出来ないという事です。神を知る時、信仰において謙虚を与えられるのです。


      (つづく)

                                         2017年4月2日


                                         板橋大山教会 上垣 勝




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