命に至る門


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                                          狭い門から入れ (下)
                                          マタイ7章13-14節



                               (2)
  そこでイエス様は更に、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」とおっしゃったのです。ジッドは、この狭さに注目して、余りにも誇張して小説を書いたのです。

  「なんと狭く」とあるのは、むろん困難さ、厳しさ、骨の折れることなどを指します。イエスは口のうまい商売人ではありません。騙(だま)したり、誤魔化されません。「道も細い」とあるのは、両側から壁が迫っている細く狭い道の事です。「見出す者は少ない」とあるのは、ごく僅かであり、少数という意味です。

  私は今回再びここから学んで、キリスト教は多数者を目指し過ぎてはいけない、少数者、マイノリティを生きるべきだと思わせられました。社会に根を下ろし、土着するのは良いことですが、塩気を失い、命を失ってはならない。命の言葉を堅く持ってこの世で生きなければならない。命を失えば、掃き捨てられるでしょう。

  少数者と言っても、学問的高さや専門の優秀さを持つ少数を言うのではありません。そういう意味の厳しさや困難さはそれぞれの分野で大切な欠かせないことですが、ここではイエスに命をかけて従おうとする少数の群れであるという意味です。

  初代教会を見ますと、それは信徒の教会であり、大抵が自宅を開放した家の教会です。異教世界の只中に、信徒が中核になった家の教会が各地に生まれ、それが地の塩、世の光となってやがてローマ世界を変えて行くのです。少数の命ある群れであったから周りを変えて行ったのです。

  イエスはここでも、この門は、「何と狭く」と言われますが、これは「命に通じる門」だと断言されます。私たちが入れる門であって、入らせない門ではないのです。むろんこの門は、「なんと狭く、その道も細い」とある訳で、そこには厳しさもあるし、辛さもあります。努力もいります。誰でも大挙して押しかけ、入って行く道ではありません。しかしこの門から入ると、中は広々として、命が溢れているのです。ヨーロッパの教会のように入口は小さい。パリのノートルダム寺院でもそうですが、人一人がやっとくぐれる門を入ると、見上げるほど天井は高く、何本も聳え立つ太い柱が林のように林立していて、空間は広々しているのです。

  去年の暮れに渡辺和子さんが89歳で亡くなられました。多くの仕事、良い影響を残された方です。この方も決して広い門から入った方ではありません。むしろ狭い、細い道を辿って、やがてイエスの前に平和を得て、憩われた方です。そのアドバイスがあって、今の美智子さんもある筈です。

  渡辺さんは、「人間にとって大切な事は、好んで狭い門、細い道を選ぶことではなくて、その様な境遇に置かれた時、つまり、意のままにならない事や、挫折、困難で敷き詰められた道に立たされた時、『これこそ、命に至る道』と悟って、欣然と、微笑んで生きる事ではないだろうか」と書いておられますが、これが大事です。そこで逃げ出しちゃあならない。逃げたら、折角命に至る道が備えられているのに、命に入って行けない。だが、そこが命に至る入り口なのです。そこに広々した世界が備えられているのです。イエスがおっしゃったのはそういう事だと思います。

  先ほど、イエスは門の外に立って、ここから入れと私たちに命令しておられるのでなく、ご自身が狭い門から入って、門の中から、この門を通って入っていらっしゃいと招いておられると申しました。この招きが大切です。

  ある方が、本の少ない戦後すぐに読んだ、外国人が書いた英語の書物のことを書いておられました。

  主人公は、当時、日本ではまだ癩病院と言いましたが、ハンセン氏病院に慰問に行きます。そして半日、患者さんたちを励まし、慰めたりした後、病院の白衣と靴を脱ぎ、自分の服に着替えて、「皆さん、お元気でいて下さい」と言って帰ろうとします。その時、一つの思いに脳天を撃たれるのです。自分は半日、一生懸命にできるだけの事をしてこの人たちに尽くした。だが何と言っても、自分は病院を出て帰る温かな家庭があり、妻や子たちが待っていてくれている。多分、夕食も待っている。自分はわが家に帰って行くが、この人たちはどこにも帰れない。だが、「ある独りの方だけはずっと病院に残られると、直観した」というのです。このお方は、「じゃあ、また、ごきげんよう」と言って帰って行かず、永遠に彼らのもとに留まるのです。そしてこの方がイエスだと気づくのです。

  私はこのくだりを読んで、主人公が直観したこの一人は、どこにも行かずハンセン病の人たちの所に永遠に留まる愛のイエス、祈るイエスだと思いました。そして、「この狭い門から入れ」と言われるお方も、門の中に留まって私たちを招いておられるということです。

  エフェソの信徒への手紙4章にこうあります。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」

  あなた方は神から招かれたのです。その招きに与って、「招きにふさわしく歩みさない。高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し…」と語られていますが、これがイエスの招きを受けて狭い門から入ることであり、中に入って生きる人たちの姿でしょう。キリストの赦しがなければ私たちは狭い門から入れません。入ろうとしても入れない。ただ憐れみによって、招かれて、入れるようにして下さるのです。

  またこれに続いて、「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」とあります。狭い門から招き入れられた後の生活がここにありますが、それにしてもただキリストの憐れみを頂いて私たちのような者も入りうるのです。

  そしてその全ては、イエスに結ばれ、イエスの招きに応えて行く道であります。

      (完)

                                         2017年3月26日



                                         板橋大山教会 上垣 勝




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