狭き門


                          オーランジュの野外劇場      右端クリックで拡大
                                ・



                                          狭い門から入れ (上)
                                          マタイ7章13-14節



                               (序)
  「狭き門」という言葉は、一般の人でも知らない人はないでしょう。今日の個所を読んだからという方もいるでしょうし、アンドレ・ジッドの「狭き門」を読んだり、題名を聞いたことがあるからという方もあると思います。あの小説は、信仰と愛の葛藤に生きる女性を描き、葛藤の中で愛にも信仰にも破れて死んでいく女性。命に入れなかった主人公の物語です。

  「狭き門」という小説は、日本では戦後、大勢の人に読まれて、イエスの「狭き門」は厳しい、厳し過ぎるという理解が普及しました。若い頃に勤めた会社の同僚にもそんな事を言う人がいました。その反対に、ジッドの「狭き門」には無数の人たちが大勢押し寄せたのです。しかし私は、どうもこの本が好きでありませんでした。どこか偏見があり、違和感があり、読んでみて、どこかおかしい、どうも変だ、どうも違うと思えたのです。

  ところが、最近、これを新しく訳した訳者が、こう言っています。「日本人が、『狭き門』を愛と信仰の物語と言われて、すんなりと受けとめてしまったのは、やはりカトリック的な信仰が分かっていなかったからだと思います。」これは大事な発言です。

  ジッド自身がカトリックの教えを曲解して小説で書いているのだが、日本人はカトリックキリスト教も知らないので、ジッドの考えをそのまま鵜呑みにして、その主張が正しいと考えたという事です。訳者がそう書いています。「狭き門」が出てから110年もして、著者ジッドのキリスト教理解の間違いがやっと日本でも正しく紹介されたのです。フランスでは早くから、例えばジッドの友人のポール・クローデルが、「批判の言葉を投げかけていた」とそうです。

  私は青年時代に読んで、これではカトリックが可哀そうだ。キリスト教が色眼鏡で見られると感じて、違和感を覚えたのですが、その違和感がやっと解けました。

  いずれにせよ、ジッド自身もまだまだ未熟だったかも知れません。小説「狭き門」は、日本人一般の、「狭き門より入れ」と言われたイエスの言葉に、かなり先入観を加えたと思います。

                               (1)
  さて、今日の聖書は、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」と、ありました。

  「滅びに通じる門は広く」の「広く」は、幅が広く、広場のようにだだっ広くなっている状態です。また「滅び」は、破滅や荒廃、損失や無駄の意味です。また、「その道も広々として」とありますが、「広々」とは、易々(やすやす)として、ゆったりとして、という事です。「そこから入る者が多い」の、「多い」は甚だ多い、おびただしいという事で、大勢の人々を指します。

  イエス様は、大勢の人たちが滅びに通じる門、多くの人が易々と通れる門から入って安易な人生の道を行くのをご覧になったのかも知れません。だがここで誤解してならないのは、イエスが、「狭い門から入りなさい」とおっしゃったのですから、入ることが可能な門です。ジッドが書いたような入れない門、あるいは入らせない門ではありません。それは全くジッドの創作です。

  聖書全編から言える事は、イエスは門の中に立って、この狭き門から入っていらっしゃいと招いておられるのであって、入りもしないで、君たちは入れ、入れと命令しておられるのではありません。イエスご自身が私たちより先に、この門からお入りになっているのです。

  ですから、この狭き門は大事ですが、それと共に、滅びや荒廃に通じる門の広さ、道の広さ、「皆で渡れば、怖くない」と言ったような、安易な道を渡って行く者たちの数の多さに先ず心を止めるべきです。イエス様は、それらに釣られて自分も進んで行く事、群衆心理の甘さ、誤魔化し、誘惑の怖さを言われたからです。

  今の日本は広い門から入る時代で、大学も広き門です。学生が来ないと経営に響くので広くしています。沢山の人が来れば、評判のいい学校という評判が立ちます。幾つもの幼稚園や保育園が園児数を水増ししたりしているそうです。大量生産、大量販売。多くの人の関心を集めるポピュラーなものでなければならない。今、日本はそういう価値観が主流です。しかしその傍らで、精神の荒廃が起こっている気がします。

  しかし、人生は1人から始まり、1人で終わります。むろん色々な事で皆の手を借りることがあるにしても、1人行く孤独な道です。本当の人生は私独自の一人の道です。即ち、人の顔を見てから決めるのでなく、自分と神の関係、1対1の関係、狭き門から入らなければならないのです。私たちはただ独りでこの世に来ましたが、ただ独りでこの世を去ります。これは永遠不変の真理です。

      (つづく)

                                         2017年3月26日



                                         板橋大山教会 上垣 勝




  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・