現実にありうること


                野外劇場のカイザル。皇帝が変わるたび首だけつけ変えました。
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                                           目の中にある丸太 (下)
                                           マタイ7章1-6節



                               (3)
  最後の6節は、「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」とあって、5節までとやや様子が違います。これは別の主題のようにも見えますが、関連がないわけではないと思います。

  「神聖なもの」とか「真珠」とあるのは、もちろん実際のそれでなく比喩です。イエスの教えや福音の真髄を指しているのでしょう。例えば5節までのイエスの教えと見てよいでしょう。

  犬とか豚と言うのは、異邦人や異教徒を指すという解釈があります。そういう解釈もありますが、これはイエスの福音の価値の分からない者たちの事を指しているかも知れません。与えても、価値が分からないので、尊い物や教えを踏みにじるのです。それだけでなくハタ迷惑だと思うので、踏みにじった挙句、噛みついて来るのです。

  イエスは命の言葉を語られました。イエスご自身が命の言葉でした。そこに私たち人類を養う多くの大事な宝が隠されていますが、不要とする人や迷惑と感じる人にとっては、耳障りな言葉以外でなく、罪を指摘されて、自尊心を傷つけられる言葉と映るかも知れません。そうなればイエスも、イエスの言葉も踏みつけ、攻撃して来て、あなたをズタズタに引き裂くかも知れない。これは現実にありうる事です。

  イエスはお人好しではありません。世の現実をよく知っておられました。犬や狼のように牙をむき出す人たちが、あちこちにいるのを知っておられたので、言わば真の羊飼いとして、羊たちを守るためにこう言われたのです。

  フィリピの信徒の手紙で獄中からパウロは、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、咎められる所のない清い者となり、邪まな曲がった時代の中で、非の打ちどころがない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」と励ましています。

  たとえ世がくつがえり、世がどのように反応するかも知れない悪しき時代が来ようと、イエスにある者たちが、命のみ言葉に堅く踏み止まり、揺るがず、神の子たちとして星のように輝いて生きるように励まされたのです。


      (完)



                                         2017年3月19日



                                         板橋大山教会 上垣 勝




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