裁き心に苦しむ



                          オーランジュ野外劇場と音楽祭
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                                           目の中にある丸太 (上)
                                           マタイ7章1-6節



                               (1)
  今日はコリント第1の手紙を離れて、「山上の説教」からイエスの教えを学びたいと思います。先ず、私たちはよく人を裁く訳ですが、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」とありました。

  皆さんはどうでしょう。家内はテレビを見ていて、あんな人、見たくないと言ってチャンネルを変えたりします。しかし、そういう当の私も、「人を裁くな」、これは一番苦手な痛い言葉です。口で裁かなくても、心の中でしばしば裁いています。若い頃はこうでなかったと思いますが、年令と共に増えていまして、これはいけないと思います。道を歩いていて、いつの間にか人を色分けしたり、丸バツをつけている自分がいます。これもいけない訳で、先入観のない、もっと澄んだ心を持たなければならないと思います。

  今日の第1節は、原文では、「裁くな。裁かれないために」と簡潔で力強い言葉です。率直です。こういう場合はどうの、あおいう場合はどうのと条件をつけておられません。

  イエスは裁きそのものを禁じられたとしか思えません。裁きは神の領域であるからで、神の御手の中にあるので、越権行為になりかねません。また裁くのは、既に人間関係がおかしくなっている証拠かも知れません。関係が良ければ、先入観のない、澄んだ目で相手を見て気持ちいい人間関係が作れるでしょう。

  「山上の説教」はイエスの周りに集った群集にも語られましたが、特に弟子たちに向けて語られた言葉です。イエスは6章の最後で、弟子たちに、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と語られました。また5章では、「あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、決して天の国に入ることが出来ない」とも言われました。イエス様から特別に選ばれた彼らですから、イエスは、「裁くな、裁かれないために」と率直に命じて、彼ら弟子たちを切磋琢磨しようとされたのでしょう。

  イエスは、弟子たちには、裁きそのものを禁じられたと言っていいでしょう。人間の裁きはごく一面しか見ていないからです。

  こんな話がある注解書に出ていました。ある2人が再婚したそうです。両方とも再婚で、奥さんの方に10代の娘さんがいたそうです。この娘さんは陰気で、器量が悪く、魅力が全然ないように見えたのだそうです。ところが母親が病気になると、娘さんは別人のようになり、実に行き届いた看護をし、奉仕と献身の真髄を示したのです。彼女の表面的な暗さに突然光が射して、その人格から誰も気づかなかったものが輝き出たというのです。所が、彼女の真髄を知らぬ者はその後も容赦なく裁いたのです。

  私たちはしばしば人の一面しか見ずに、その人の全体がそうであるかのように裁き勝ちだと思います。普段はあまり気にしませんが、自分が不当な裁きを受けた時にそれに気付きます。当っているかどうか分からないほんの一部分を見て、全面的に否定されたりすると、人間と言うのは何といかがわしい存在かに気付きます。

  「日に7度び、内を顧みる心なくんば、これを責むべきにあらず。」韓非子の言葉でしたか、誰の言葉だったか忘れましたが、自分を棚に上げて人のささいな事を裁く。そこに問題がある。それをやめよ、と言われたのです。

  「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と聞くと、自己防衛のためのように聞こえます。裁きを免れるために裁くなと言うことになれば、いたって消極的なものです。むろん人を裁くと裁き返されます。こちらの顔が鏡に映っているような状態が人間関係で起こります。「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」のです。

  イエスが自己防衛的な所から裁くなと言われているように聞こえるのは、イエスは私たちの本音、私たちの現実に歩み寄って、少しでも裁かれないようになるために、こういうことがあるではないかと説得するためでしょう。

  ですからイエスはここで、単に自己防衛的なあり方を言われたのでなく、もっと積極的なあり方を言われたのです。人間の裁きを超越した神がおられる。その方を知る時に、裁きでなく人との間に信頼を作り出すことが重要になり、またこの方がおられるのを知る時、たとえ人から裁かれても、それに打ち克つ力が生まれるからです。それが先程の6章の、「何よりもまず、神の国と神の義を求めよ。そうすれば、これらのものは添えて与えられる」という言葉の意味でもあります。

  私はこんな誤解を受けた、こんな風に不当な裁きを受けたなどと聞くことが多いです。しかし中に、自分の裁き心に苦しんでいる人もあります。そんなある人が、自分の裁き心を取り上げながら、「全ての裁きを超越した神の愛を、自分のものとして受け取る時、初めて、裁きに対するあらゆる恐れに打ち克つことができます」と書いていました。最終的な裁きは神の手の中にあることを知る時に、裁くことから解放され、また裁かれても恐れず、人の裁きを越えて気を落とさず、進みゆくことが可能になると言いたいのでしょう。

  裁き心から解放され、裁かれても恐れない。それは裁きを越えた唯一のお方を知ることによってしか、得られないのではないでしょうか。この7章1節以下を、今申しました6章からの流れで読む時に、裁きを越える喜ばしい視点を与えられるのです。

      (つづく)

                                         2017年3月19日



                                         板橋大山教会 上垣 勝




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