君の内に住む神


                   吊るし雛は江戸時代から続く庶民の雛
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                                          君の内に住む神 (上)
                                          Ⅰコリント3章16-23節


                          (1)
  今日は、先週残しました16節からです。ここに、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とありました。

  「あなたがた」とありますが、意味はやや曖昧です。あなた方一人一人が神の神殿であるというのか、それともあなた方というのはコリント教会、その信仰共同体を指して「神の神殿」と語っているのか、2様の意味に取れます。前者だと、あなた方それぞれに神が住んでおられると言うことになり、後者だと神の霊がコリント教会の中に住んでおられるとなるでしょう。個々人が神の神殿だという見方と、教会が神の神殿であるという見方です。

  個々人の内に神が宿り、個々人は神の神殿だと言うことは、内在する神という考えです。ただ神が内在すると言っても、人間が神的な存在になるわけではありません。日本人はそうなりやすいですが聖書はそういう考えを取りません。また、神が個々人に内在されるなら、自分の内を見つめれば神と出会えるという考えも出て来ますが、そういうことでもありません。神に出会えるのはあくまでキリストにおいてです。むろん自然の中や何かを読んでいて直観的に神をひらめく事はありますが、それが神であるかどうか、聖書を通して知ります。

  また私という枠の中で理解される神は、神を小さく矮小化してしまいますから、そいう考えも取りません。「神の霊が自分たちの内に住んでいることを知る」ということは、私の内に、私を遥かに越える神が住んでおられると言う、私と共におられる恵みの神への感謝の表現です。

  ただ、「神の霊が自分たちの内に住んでいる」という事は、自分自身への根本的な見方の転換をもたらします。自分というものを決しておろそかにしてはならないと言うこと。粗末に扱ってはならないと言うことです。

  社会には、自分が許せないと思う人たちがいます。それで自分を罰し、自分を苦しめる人もいます。苦しめることで生きる確かさを手にしているのかも知れません。自分への一種の報復行為でしょうか。中にはリストカットなど、わたしの知人には実際に自分の体を傷つける自傷行為をする人もいます。

  だが、その人たちも含め、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に」お住いなのですと語るのです。その人はそのことに気付かないかも知れないが、個々人の存在の中に、既にお住み下さっているし、その人のために祈って下さっている。当然愛して下さっていると言うことです。

  エフェソ書に、「私たちは神に作られたものであり」とあります。ここは前の口語訳では、「私たちは神の作品であり」となっていました。作品とは神の傑作であると言う意味です。

  ある方に子どもが生まれました。丁度その頃、その子の曽祖母が病院にいて、もう先が長くないので見せに行ったそうです。すると起きれないお婆ちゃんが、手助けしてもらってやっとのこと起き上がって、生れて間もない曾孫を見るや、「天下一品じゃ」と言ったそうです。私たちは、天下一品、神の傑作として作られたのです。それが、「あなたがたは、自分が神の神殿である」という言葉であり、あなたの内に神が住んで下さっているという事です。この事は人間の秘義でしょう。人の奥義です。

  こういう意味で、私たちの苦手な人の中にも神が住んでおられるなら、幾ら苦手でも、その人の中のキリストに話しかけ、その人のキリストを愛する。相手の良心に呼び掛けるように導かれます。無論キリストまで届かず、肉の彼にしか届かない場合が多くありますが、その人の奥深くに住んでおられるキリストに向かってする。マザー・テレサさんも似たことを話しておられますが、16節はそういう深い内容を示唆しています。

  弱い強いはあるにせよ、犬猫と違い、全ての人の心に祈り心があるのは神を宿しているからです。誰に対してどう祈ればいいのか知らないかも知れません。だが、誰かが助かりますようにと切に思う時は、無神論者でも必死に祈っているのではないでしょうか。

  少し戻りますと、あなたは神の神殿だから自分を大切にしなさいと語り、また、「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう」とあります。壊すとは、元は、壊すという意味と、ダメにする、汚す、堕落させると言う精神的な意味を持っています。あなた自身を壊し、ダメにし、堕落させ、汚してはならない。そんな事をすれば、「神はその人を滅ぼされるでしょう」、あなたは危機に瀕するとパウロは警告しています。

  ただ、今は神が忍耐して滅ぼすのを待って下さっている。愛をもって忍んで下さっている。だから神の神殿である自分を大事になさいということです。神の忍耐はあなたのためで、あなたを寛容に待って下さっていると言うことです。

  また、神が内にお住みなら、あなた自身、このお方によって聖なる者であり、犯し難い尊さを内に秘めているという畏れ多い意味も含みます。人は皆、神聖な命の尊厳を内に戴いているのです。

  私たちは自分を見る見方と、キリストが私たちをご覧下さる見方は違います。私たちはキリストの御目に映っているように愛の眼差しで自分を優しく見る。それが求められていることでもあるでしょう。これが大事だから、パウロは17節でも繰り返し、「神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」と注意を促すのです。

  もう一つの面、教会が神の神殿であり、神がその内に住んでおられると取れば、教会共同体の内に目に見えぬお方がいつも住んで下さって、教会と喜びを共にし、悩み苦しみの時は、このお方も苦しんで下さっている。教会を壊す者がいれば、神はその者を滅ぼされる。激烈な言葉ですが、これは教会はそこまで守られているということです。

  これは教会の神聖化や権威化でなく、教会の再発見へと導きます。尊いものを戴いている教会に、襟を正して仕えなければならないと思います。

(つづく)

                                         2017年3月12日


                                         板橋大山教会 上垣 勝




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