たとえ燃え尽きても



今日はお休みの人があり女性も加わりました。2枚目の写真は「お口直し」の1枚。どの人の寝室でしょうか…。  
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                                             あなたは神殿です (下)
                                             Ⅰコリント3章10―17節



                              (3)
  次に12節以下でパウロは、この土台の上に、「だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、 おのおのの仕事は明るみに出されます」と語り、「かの日が火と共に現れ」とか、「その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味する」とか語ります。また、「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けるが、燃え尽きれば、損害を受ける。ただ、その人自身は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われる」などと語っています。

  家を建てるのに金、銀、宝石とあるのはどうしてだろうと思います。これは長く分からなかった事です。しかし今回考える中で気づいたのは、今、彼は家の譬えで語り出しましたが、話の流れからすれば教会という神の建物、その共同体をどうコリントにおいて立てるのかを語っている所です。そして16節で、「あなたがたは、神の神殿である」と申します。

  彼は建物の譬えで語っていますが、言いたいのは教会という言わば神を宿す神殿、教会は神殿ではありませんが、共同体の建設のことです。

  神殿だと、普通の民家と違い金銀、宝石などが随所に散りばめられ、荘厳な神殿が出来ています。仏教寺院でも、平泉の中尊寺金色堂などはそうではないですか。確か金箔ですが、象牙や宝石が使われています。エルサレム神殿は純金や宝石がふんだんに使われていた訳です。

  教会をそういう金銀宝石で造りなさいと言っているのでなく、色々な人や働きや能力などを用いて作られます。だが、誰かが色々な材料を用いて教会を建て、共同体を創ったにしても、最後の日であるかの日に、神は各々の仕事を火によって明らかにされると言うのです。

  言葉を変えて言えば、やはり比喩ですが、人々は金属とか紙や木切れや石や色々なものを用いて神の神殿である教会を建てるが、それぞれその人が為した仕事は、終わりの日に明らかにされる。言わば焼き尽くす火によって仕事の質が試されるというのです。火とは、神が裁かれる裁きの火です。人間の火、人間の勝手な尺度ではありません。神が最終的に正しくお裁き下さると言うのです。

  先日、白十字ホームの「聖書の集い」にAさんやお手伝い下さる他教会の方々と参りました。今月もお部屋いっぱいにお集まり下さり、20人程の楽しい集まりでした。

  私は勝手させて頂いて、タクシーに分乗せず、小一時間、ハ国山を山歩きをしてホームに着きました。山を登り始めた時、前方の斜面一体の雑木林が7、80本ほど伐採されて、丸太があちこちに積まれていました。見た途端、「どうしてこんな無惨なことをするのか」と思いました。訪れる親子連れの公園でも作って客を沢山呼び込もうとでも言うのでしょうか。そういえば別の場所がすっかり整備されて素朴な雰囲気がなくなって残念に思っていました。その矢先、ここもそうなれば、トトロの森とも呼ばれるこの素朴な里山が破壊されて行くでしょう。悲しみと怒りが込み上げて来ました。

  尾根に出て暫らく行くと、山仕事の人がいたので怒りを抑えて、「ご苦労さまですね」などと穏やかに声を掛けたつもりでしたが人間って敏感です。相手は何かを感じたのでしょう。緊張気味に受け答えして来ました。私は出来るだけにこやかに話しをして、最後に、「山の登り口のコナラなどが伐採されていますが、あそこはどうされるのですか」と聞きたいことに触れました。

  そしたら、「株を50㎝ほどの所から伐採すると何本か芽が出て来ます」と言うので、「ヒコバエですね」と言いましたら、この人は知っているんだと思ったようで、乗り気になって話し始めたので、相槌を打って聞いていますと、何本か出て来たヒコバエの1本だけを残して育てること、コナラの木は30m程になりますが、3、40年すれば倒木しやすいこと、間伐でなく一面に伐採して森に陽の光が差し込むと色々な植物、山百合や山つつじなどが芽を吹き出し花を咲かせ始めること。伐採で森の新しい再生が出来ることなどを話してくれました。この伐採は山の再生だと知りました。

  成る程と聞いていまして、それと共に、先走りして裁くなとパウロが別の個所で語っているのを思い出しました。私は先入観をもって性急に裁いていたのですが、それはいかんのです。相手は正しいことをしているのに、間違った観点から主観的に相手を裁く自分の弱点をイヤという程見せられました。

  パウロは、「かの日に」と言っています。かの日の神の裁きに委ねよと説いているのです。その裁きは誰も免れる事は出来ないと、最後に吟味されるお方が、終末的に決着をお付けくださると説くのです。

  誰かお偉い人が吟味するのではない。ポピュリストが集まって弾劾やリンチを加えるのでもない。「火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味する」とあるように、火が、即ち神の御心が最後的に判断されるということです。

  しかも、「誰かがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と語って、仕事もですが、その人自身も吟味される。だが、「火の中をくぐりぬけて来た者のように」、言わば火中の栗を拾うかのように、私たちはその裁きから取り出されると言うのです。

  「各々の仕事がどんなものであるかを吟味」とあるのは、その質の吟味でしょう。どんな質か、あなたが為したのは、愛によってか、自分の為であったか、欲の為であったのか、それとも私心なき行いであったのか。そういうことが問われると言うのでしょう。

  ただ15節は、「燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と語ります。

  私は人生の最後に、自分が行ったことで燃え尽きてしまわないものなどないのでないかと思ったりします。これでいい。これで満足だと思うものなどない気がするのです。むしろ、これで良かったのだろうか。もっと旨く出来たのでないかという反省が多いです。

  しかしパウロは、たとえ燃え尽きてしまっても、「その人は火の中をくぐり抜けて来た者のように救われます」と語るのです。これは思いがけない言葉であり、大きな慰めです。火で試されても、火をくぐり抜けて、火中の栗を拾うかのように、大やけどをしながらであっても救い出されると語るのです。キリストが助け出して下さる。最後には、足りない所にキリストが必要なものを付け足して帳尻を合わせて下さるのです。かくも卑しい愚か者をも救い出すために尊い十字架の血が流されるのは当然です。

  かの日には必ず神が決着をお付け下さる。愛をもって、慈しみをもってしていたのか。愛なしにしていたのでないか。たとえ山を動かす程の完全な信仰をもっていても、全財産を貧しい人に使い尽くそうとも、「愛がなければ、無に等しい」とあります。どんなに大きな事をしたとしても、愛なしにであれば一切は無益であるともあります。

  もしかすると自分はそんな風であって。焼き尽くされるかも知れません。灰になってしまうかもしれない。だが、「燃え尽きてしまっても、その人は火の中をくぐり抜けて来た者のように救われます」とパウロは語るのです。キリストにあっての人生は無駄にならないということです。ダメだと言う人生にならない。ここにあなたの唯一の救いの道が残されていると語るのです。これはもう私にとって、皆さんにとってもこれ以上の有り難さはありません。本当に素直に喜びであります。

  この後は、次回に回したいと思います。


      (完)


                                         2017年3月5日

                                         板橋大山教会 上垣 勝




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