仲良し関係を越えるもの


                      男性陣によるかた焼きソバはばっちりでした  
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                                             あなたは神殿です (上)
                                             Ⅰコリント3章10―17節


                               (1)
  今日の個所は先週からの続きです。先週の最後の9節でパウロは、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と書きました。私たちとはパウロやアポロを指します。その自分たちは、あなた方コリントにおいて信仰の種を蒔き、水を注いで育てて来た。あなた方はいわば「神の畑」ですと言ったのです。ちなみにこの「畑」とある元の言葉は、畑の土地だけを指すのでなく、畑と住居、納屋などを含む、広い農場や農園を指す言葉です。自分たちは、コリントという農場で福音の種を蒔き、コリント教会を育てて来たと比喩的に語ったのです。

  そして今日の個所では、これも比喩的に、あなたがたは「神の建物」ですと語って、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています」と書いています。

  熟練した建築家とあるのは、賢明な建築家という意味でもあります。何が賢明かと言えば、「神からいただいた恵みによって」建てて来たからでしょう。パウロは自分勝手に教会を建てたり、土台を据えたりしませんでした。ただ神の恵みを頂戴し、その恵みに従って据えて来た。自分たちが何かをしたとしても、それは自分の力や努力で実現できたのでなく、ただ神の恵みであり導きであった。自分たちの功績ではないと言うのです。ここに、パウロが神の恵みによってのみ生かされている自覚が活き活きと出ています。「神からいただいた恵みによって」という思いは、彼を感謝に溢れさせたでしょう。

  春の日差しが戻って来まして、庭のコデマリや雪やなぎの芽が膨らみ始めています。もうすぐ早咲きのチューリップも蕾をのぞかせるでしょう。花は太陽なしには育たないように、神の恵みなしには自分はないこと。その恵みによってコリントに教会の土台を据え、建てて来たこと。その恵みへの思いは彼を謙虚にし、自然な信仰の喜びと感謝の吐露へと導いたのです。

  自分の力で生きて来た。道を切り拓いて来た。これからも自力で切り開いていくと今は自信をもっている方も、まさかのことが起こり、自分の力が頼れなくなった時には衝撃でを受けるでしょう。その時初めてワラをもつかむ思いになるでしょう。その時、ワラでなくぜひキリストを掴んで頂きたい。すると必ず新しい道が拓けます。

                               (2)
  今日の所に、土台という言葉が何度も出ています。4、5回です。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」ともあります。

  今年も3月11日を迎えんとしていて改めて土台の大事さを思います。私たちの教会は3月で、リフォーム後丸6年経ちます。ちょうどあの震災の月に完成しました。リフォームが始まった時、以前の会堂の壁も床も天井もすっかり取り払われ、皆さんの今おられる座席の下の地面が50年ぶりに現われました。その地面を80cmほど掘り下げて地面を固めた後、台所部分も含め40cmほど全面にコンクリートを流し込みました。次に、その上に太い鉄筋を上下2重に碁盤の目のように無数に張り巡らし、それに再びコンクリートを流し込みました。実際に現場を見て、教会の土台は盤石になったと思いました。この土台の上に、工場の柱に使うような太い鉄のH型のアングルを太いボルトで固定して柱を乗せ、更に耐震を強化するために講壇のこの場所と聖書の棚の壁の部分にデカイ鉄の構築物を据え付けて、耐震補強工事が進んで行きました。天井にも入っています。ですから大山の直下でマグニチュード9.0の地震が起こらない限り、教会は倒れません。

  長々申しましたが、土台が大事であって、「キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることはできません」とあるように、このお方こそ既に据えられている唯一の土台だと彼自身も自覚して、コリントに信仰の土台を据え教会を建てたのです。

  これが教会の唯一の土台です。ですからたとえ世界基督教統一神霊協会などと称しようと、それはキリストを土台としていませんから、キリスト教ではありません。エホバの証人もエホバは聖書の神の名だと称しますが、キリスト教ではありません。彼らはキリスト以外のものを土台にしています。

  キリスト教である限り、キリストと言う土台に拘束されます。拘束されると言うと不自由に聞こえますが、キリストに結ばれてキリストに拘束されて、私たちをこの世の縛りから自由にし、喜ばしく、頼もしくするものです。この土台に信頼を置けば置くほど力と勇気が湧いて来ます。

  私たちは社会でも教会でも、人々との横の関係で生きています。社会で生きるとは人間関係の中で生きることです。あの人がああ言ったの、この人がこう言ったのと、人の評価や視線を誰も免れることはできません。しかし、本当の意味で死線をさまよったり、極限状況に置かれたりすれば、そんな横の関係は助けになりません。どうでもよくなります。神との、垂直的な縦の関係だけが大事になり、神様こそ極限状況から救い出して下さることを知るでしょう。

  ですから、キリストという土台を外す。すると教会は何が何だか分からないものになります。教会を仲良しクラブ、仲良し会のレベルで考える人がいるかも知れませんが、それは教会ではありません。むろん仲良しも大事です。今朝も朝早くから男性たちが集まって、愛餐会のかた焼きそば作りをしていましたが、短時間ですが一緒に作る楽しい良い交わりがありました。交わりが更に深められていいと思います。しかし、仲良しは大事ですが、それを遥かに超える方との個々人の関係こそもっと大事で、その方から人間的な仲良しが時に正されねばならない。砕かれる必要もあります。仲良しが嵩じて、自分とキリストとの垂直関係がどうでもよくなってしまっては元も子もないからです。そうなると糸の切れた凧のようになってどこかへ行ってしまいます。

      (つづく)


                                         2017年3月5日

                                         板橋大山教会 上垣 勝




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