成長させてくださる神



                          ラスコーの野牛バイソン  
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                                          成長させて下さる神8(下)
                                          Ⅰコリント3章1-9節


                              (2)
  さて話変わって、今日の聖書のもっと重要な部分に進みましょう。パウロはコリント教会で問題を起こす人たちのことを聞いて、5節で、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」と語りました。

  アポロもパウロも、共に一体であり、あなた方を信仰に導くために、それぞれが力に応じて主に仕えた者である。神のために働く、同労者、共労者である。我々は単に神の僕に過ぎない。互いに働き方が違うだけで、あなた方への奉仕者に過ぎない。

  その様に語って、私たちが常に心を留め目を注ぎ大切にしているのは、成長させて下さる神です。即ち、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」と語ったのです。

  コリントの人たちも、それぞれが神に目を注いで神に仕えて行こうという呼び掛けでもあります。あの人が良い、この人が良いと、教会の中の人物評価に明け暮れるのでなく、不平でなく、今ある所の恵みに目を留め、必ず成長させて下さるお方を信頼して生きて行こうと呼びかけたのです。パウロはよく、教会の徳を建てよう、人の徳を建てようと語るのはこのためです。人をけなすのでなく人の徳を建てる。

  「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。…」とありました。ここでも壊すことでなく建てること、建設する神のことが語られていますが、6節、7節はしばしばキリスト教主義学校や子育ての分野で取り上げられる、大変重要な考えを含んでいます。

  私は植え、アポロは水を注いだと言っていますが、教育の現場で教師が果たす役割は、日々研さんを重ねて教科研究をし、年々目まぐるしく変わる社会に晒されている子ども達の生徒指導を素早く適切にしなければなりません。教師が自己研鑽をやめれば、その日から子ども達へのベストなあり方が劣化して行きます。学校でなく、子ども達への親の在り方にしても、子どもの自由を尊重すると言うことでも、放任や育児放棄のギリギリまで行っている場合があるかも知れません。

  また学校のことに戻りますが、学校教育の現場で、教師も人間ですから色んな意味で怠けますし、息抜きも必要です。だがそれをし過ぎるとそれが子ども達に波及して行く。そこに、「植え、水を注ぐこと」、手をかけ世話をすることの厳しさと困難、またその仕事の重責があります。

  だがそれと共に、「成長させて下さる神」から教師自身が慰めを引き出せないほど、自分に厳しくあってはならないのです。努力をします。だが私たちの努力にまして「成長させて下さる神」がいます。ゆったりと、子ども達を神に委ねることが必要で、子ども達が息抜き出来ぬ程子どもの世界に教師が干渉しに入っちゃあならない。親も同じです。かと言って、成長させて下さる神に任せっ切りで、努力を殆どしない。努力をしない言い訳に、「成長させて下さる神」を持ち出す。これもおかしいでしょう。

  自分を甘やかし過ぎてはてはならない。だが、「成長させて下さる神」にすっかり委ねることもやめてはならないのです。子どもの自主性が伸びるのは、人間を越えたこのお方に信頼し大らかに委ねる時です。この呼吸が大事です。

  前の教会に3人の子どもをもつお母さんがおられました。韓国出身の方で、子ども達は3人共、信仰を継ぎました。そのお母さんから、ご長女の成人祝福式を教会でして欲しいと言われてしたことがありました。素晴らしい着物を着て教会に来られましたが、教会にそれは美しい見事な花が咲いたかのような様子でした。

  その後、お母さんが感想文をお書き下さって、ソウルの母教会ですが、長女を産んで聞いた説教の中で、「祈りなしで子どもを育てることは、一種の奇跡である。この悪に満ちた世界で祈らずに子どもがちゃんと成長することを望むのは、傲慢な事だ」と言われたと書いておられました。

  「悪に満ちたこの世界で祈らずに子どもがちゃんと成長することを望むのは、傲慢な事だ。」自分たちの力で育てることが出来ると甘く考えているからです。自信があり過ぎるのでないかということです。多くの親は自分では気づいていないが、実の所は傲慢なのでないか。あるいは悪が入り込むこの世界の現実を実は知らないのでないか。そんな多くの意味を含みます。そういう意味で、「成長させて下さる神」を信じるとは、神頼み、お任せの安易さの勧めでなく、神への切なる信頼の祈りであると言っていいのでないかと思いました。

  いずれにせよ、神に信頼すると言うのは、「成長させて下さる神を信頼する」と言うことでしょう。作曲家のバッハはいつも、「神よ、助けたまえ」と書いて作曲を始めたそうです。そして完成すると最後に、「ただ神の栄光のために」と書いたそうです。

  彼が天才だったのかどうか知りませんが、私たちは、神の助けなしには本当に良い事は出来ないのではないでしょうか。いや、良い事すら、実は結果的に悪いことになる場合があります。ですから、「神よ、助けたまえ」と「ただ神の栄光のために」という心からの祈りが大事になります。

  そしてそれらをなした時に、私の名が残るとか私という名が大事なのでなく、「ただ神の栄光のためになす」、この神に向かって澄んで明るい、明澄な心こそ大事だと思います。それが7節で、「大切なのは、…成長させて下さる神」と語られていることです。

      (完)


                                         2017年2月26日

                                         板橋大山教会 上垣 勝




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