ねたみ争いの構図


オーランジュの凱旋門レリーフが素晴らしい。BC20年頃のもの、ローマ時代のアグリッパ街道にあります。  
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                                          成長させて下さる神 (上)
                                          Ⅰコリント3章1-9節


                               (1)
  今日の個所の前半は、コリント教会の状況が述べられています。不幸にも問題を起こす人たちがいた訳ですが、その問題点は何かをパウロの視点からクリアにしようとしています。ですから、今日の教会と必ずしも直接つながりませんが、教えられることが多くあります。後半は「成長させて下さる神」とあって、どんな人も教えられるでしょう。

  冒頭で彼は、「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました…」と書きまして、1節から4節まで大変辛辣な言い方を相手にしています。かなり容赦ない言い方ですね。

  要約すれば、あなた方は、既に恵みによって信仰に導き入れられたに拘わらず、今も未熟で、乳飲み子のような状態であり、信仰の人、霊の人とは到底言えない肉の人である。今になっても堅い食物が食べられない。「お互いの間にねたみや争いが絶えない」以上は、ただのこの世の人と同じだ。「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロにつく」などと互いに張り合っている以上、キリストの愛の霊に導かれた霊の人でなく、この世の人たちと寸分も変わらない自分中心の人間に過ぎないではないか。

  パウロが種をまいて生まれたコリント教会ですが、そこを去って何年か経過した後、現状を知って、彼は慙愧(ざんき)に堪えない思いでこの手紙を書いている訳です。

  冒頭で、「兄弟たち」と呼びかけていることに、私はややショックを受けました。なぜなら、「兄弟たち」と呼びかける限り、問題行動をしている人たちはコリント教会の多数でないにしても、彼らも洗礼を受けてコリント教会員になった人たちです。彼らは、パウロかアポロに洗礼を授けられたか、どちらかが同席して洗礼を授けられた筈ですが、幾ら歳月がたってもいっこうにこの世的生き方が改まらず、コリントは風紀の乱れた町で、その風紀が洗礼後も改まらず肉の人のままであったからです。

  完全な人になれと言っているのではありません。彼は人間は完全にはなれない事は承知していますし、不完全で欠けがあるからこそキリストにつながり、赦され生きています。

  ところが、問題の人たちは、教会の外でなく、中に入っても妬みや争いで生きている訳です。そして、私はパウロにつく、いや、私はアポロにつくと言い合って、教会はキリストに在って1つであるに拘わらず、教会の中にパウロ・グループ、アポロ・グループのような対立的な集まりを作って、敢えて分裂を作り出していたのです。

  ショックだったと申しましたのは、どうしてパウロやアポロともあろう人が、こう言う人たちに洗礼を授けたのか。予見できなかったのか。それが不思議であったからです。

  しかし冷静に考えれば、人間というのは1年、2年、5年と年月を踏まなければ、その人がキリストに心を向けているのか、どういう人であるか分かりません。イエス様だって、最初からイスカリオテのユダが裏切ると分かって弟子にされたのではないでしょう。ユダの場合は途中で変心したのですが、コリントの問題児たちは、洗礼を受け、キリストによって成長してくれるものと期待していたのに、未熟な信仰のままに、自分は東西切っての雄弁家アポロ先生から洗礼を受けた。だから自分はアポロにつく。いや、自分は思想家として優れたパウロ先生に導かれた。だから自分はパウロにつくなどと言い合って、教会内にアポロ派やパウロ派を作って対立し、「お互いの間に妬みや争いが絶えなく」してしまったのです。

  教会はキリストに在って一つ、洗礼は一つです。ところが敢えてアポロ派、パウロ派を作る人たちがあり、その問題で教会が分裂させられそうになったのです。大変な状態を迎えていたと思われます。

  1節に「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」とありますが、パウロが、「あなた方には霊の人に対するように語ることができず」と語っている所から透けて見えることは、彼ら問題児たちは、「霊の人である」と自負していたに違いありません。ところがパウロからすれば、未だ彼らは霊の人でなく肉の人である。乳飲み子のような未熟な信仰の持ち主であると言いたいのでしょう。

  確かに今日でも勘違いしてならないのは、霊の人とか聖霊に導かれている人というと、雄弁に滔々と語る人、キリスト教用語をうまく操って説得的によくしゃべれる人などと勘違いしていることがあります。だが言葉を次々連発して情熱込めてしゃべると、聖霊に満たされた人のように錯覚しますが、それは錯覚であって、聖書がいう霊の人は、雄弁とか感情的激しさとか豊かさとは別物です。むしろ木訥(ぼくとつ)かも知れません。だが堅く信仰に留まり、地道にキリストを信じ続ける人です。第2テモテが語るように、聖霊は「力と愛と慎みの霊」です。その様にしてキリストに仕える霊です。

  パウロは3節で、「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」と、問題の核心をズバッと指摘しましたが、「妬み」とあるのはジェラシーです。「争い」とあるのは対立であり、対抗意識であり、闘争心を指します。それが相手への裁きになり、自己の正当化になり、不満にも蔭口にもなって発展します。だが、それは信仰とは何の関係もなく、肉の働きに過ぎません。

  それが発展して、私は誰々につく、いや、私は誰々だといって対立する訳です。だがそれは、要するに肉の人、ただの人、この世の基準で生きているに過ぎない人だと言うのです。

  教会はキリストの体です。妬みや争いや対抗意識、またあの人はどうの、この人はどうのと言った蔭口やうわさ話で成り立ちません。それは教会の霊的な性格を軽んじ、キリストの徳を貶(おとし)めるものになりかねません。

  彼らはそのようなことをしながら、自分たちは何々先生から洗礼を受けたクリスチャンだ、霊の人だと語って、傲慢になっていたのでしょう。そこにこそ、「相変わらず肉の人」であるという証拠があるとパウロは指摘するのです。


      (つづく)


                                         2017年2月26日

                                         板橋大山教会 上垣 勝




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