美は、見る者の目の中にある
オーランジュのバザール。フレッシュでおいしかったです。
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あなたの中の光(中)
マタイ6章22-23節
(1)
さて今日の個所は、こうした前後の教えに挟まれて、「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い…」と語られています。もちろん前後のものとパックになっていませんが、関連の中で語られているのは確かです。
22節の言葉を聞きますと、「目は心の窓」という言葉を思い出す方が多いでしょう。これは日本の諺(ことわざ)だと勘違いしていましたが、日本でなくイギリスの諺です。
「目は心の窓」。目を見ればその人の本心が分かる。まともに取れば、実に恐ろしい言葉です。私などは、若い時は目を見られるのが怖かった思い出があります。自分の目もろくろく見られなかった小心者です。青年時代は心に色々よからぬ思いが浮かびますので、下心が読まれはすまいかと思ったのでしょう。人前では目を閉じて話した程です。それもいつの間にか目が開いて来て、年令と共に誤魔化すのがうまくしまったようです。
相手の目を見て話す。これは大切なことです。自分に対しても、相手に対しても大切です。自分を振返って申しますが、ぜひ若い方々はそういう習慣を身に付けて頂きたいと思います。斜(はす)でなく、相手を正面に見て会話する自己訓練。これは相手だけでなく自分への丁寧な人生の向き方として大切です。
もう一つの目の諺があります。「美は、見る者の目の中にあり」。こっちの方は素晴らしい言葉です。花が美しいと感じるのは、目の中に花を美しいと見分ける感受性があるからだ。そうです。あるものを見ても美しいと感じないのは、その人の目にそういうセンサーが備わっていないか、退化しているからかも知れません。退化しているなら磨かなきゃあなりませんね。
聖書に戻りますが、「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」とイエス様は語られたのです。面白い表現です。
「ともし火」とあるのはランプのことです。脱線ですが、イエスよりももっと古い古代、2万年程前の人類が既にランプを知っていたのには驚きます。彼らは獣の脂(あぶら)を使ってランプを灯しました。賢いですね。ラスコーの真っ暗な洞窟の中で、まさに人類の遺産である素晴らしい絵を描いたクロマニヨン人たちは、獣脂を使っていたのが分かっています。次の、「目が澄む」とは、単純であること、純粋であること、一筋で、二心(ふたごころ)がないことを指します。大変大事なことが示唆されています。「濁る」とは、邪悪である、悪意があると言う意味です。
イエス様は、私たちを弟子として愛するために語られたのです。裁きでなく愛です。よい石を磨いて切磋琢磨するためです。
このみ言葉を理解するために、真っ暗な土蔵を考えて見て下さい。土蔵には必ず通気と明かり取りのために小窓が1、2か所あります。窓は小さくても、開けると光が真っ暗な蔵に明るく射し込みます。しかし、窓が壊れたり潰れたりして開かなければ、土蔵の中は暗くてたまりません。目も体に対して、そういう働きをしていると言うのです。また、あなたの中の光が消えていれば、その暗さはどれ程かと問われるのです。
これは比喩ですが、あなたの内に神を迎え入れていないなら、あなたの心はどれだけ暗いかということでしょう。神から切り離れていれば、引っこ抜かれた棒杭のように投げ捨てられたままである。そのことに気づけば不安になるのは当然です。人間というのは本来孤独です。ただ一人ですから、本当はそういう不安な姿をしていると言うことです。
宗教とは日本語では宗、即ち中心となる者の教えと書きますが、英語やラテン語ではリリジョン、レリギオと言いまして、真実なもの、神と「関係する」という意味です。この関係が失せれば蔵の中、心の中は暗くなる。光が消えれば、「暗さはどれ程であろう」、その人間に危機を招くほどの暗さだとイエスは言われたのです。
反対に、あなたが人生と世界の根源である神の光に照らされるなら、明るく澄む。そして人生と世界をその光に照らされ、内側から光が灯されるなら、あなたの人生全体が明るく平和と喜びが自然に訪れると言うことです。
(つづく)
2017年2月19日
板橋大山教会 上垣 勝
ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/
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