断食―人生の神への集中
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あなたの中の光(上)
マタイ6章22-23節
(序)
今日はコリント前書から離れて、マタイによる福音書から神のみ言葉を聞きましょう。この個所は、5章から続く「山上の説教」の1部分です。今日のすぐ前には、「地上に富を積んではならない。…富は、天に積みなさい」とあります。即ちあなたの最も大切なものを天に積み、神の所に置きなさい。あなたは何を中心に、何を仰いで生きているのですか。あなたは、このお方に心を留めて生きなさい。今風に言えば、競争社会や物質主義、経済至上社会の中で、あなた方はこのお方にこそ目を注いで生きなさいと言われたのだと思います。
またその更に前には、断食のことが言われて、「断食するとき…偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。…頭に油をつけ、顔を洗いなさい。…断食が人に気付かれず、隠れた所におられるあなたの父に見て頂くためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」とあります。
断食というのは、今は宗教的な意味で殆どする人がいないでしょうが、日本では煩悩を克服、滅却するために断食を行って、自分との闘いの時として捉える傾向が強かったと思います。しかし聖書では神との交わりに備えるためであり、神との関係で断食をしました。献金と同じです。
ところが、自分がいかに厳しい断食をしているかを人に知ってもらおうと、断食をしている。それは偽善だと言われるのです。献金もやはりそうでしょう。献金も自分がどれだけ献げるか、人が幾ら献げたか、それは問題ではありません。神を信じる故に、心を込め精一杯神に献げるのが献金です。これは、少し次元に違うことですが、他の人と共同で行う中々辛い仕事だとか、家事の分担でも言えることです。
ですから、断食は他の人がどう見るか、本質的にはそれはどうでもいい。隠れたことを隠れた所で心を見ておられるお方のみを相手にしなさいと言うことでしょう。人生の神への集中とも言える、非常に大切な教えをしておられると思います。
これはまた、人の報いを当てにするな。人の報いを当てにして、右に左に揺れて右顧左眄(うこさべん)するな。人に見てもらおうとする態度、それがあなたをダメにする。それを越えて、独立独歩、ただ神のみを相手にし神を拝して生きなさいと言うことにもつながります。
長々と前置きをしていますが、これは、私自身に語られていることだと思うからです。なぜなら、人間を越えたものとの関係の中で生き、人生の神への集中こそ、私自身が最も欠いていることだと言わざるを得ないからです。この一番大切なことが、自分に希薄だと自己告発せざるを得ません。
これは、今日の次の段落に、「神と富とに仕えることはできない」というイエスの言葉ともつながっています。先程の「天に富を積め」という教えと、神と富という2人の主人に兼ね仕えることは出来ないという教え、そしてあの断食の教えも、共に神に向かって人生を真剣に生きよ。そうすればあなたが最も大事にする人生の生き方、宝を、誰からも奪われずに全うすることが出来る。即ち人生の神への集中によって、あなたは父母からも誰からも独立し、誰でもないあなた自身であることが出来るのです。
(つづく)
2017年2月19日
板橋大山教会 上垣 勝
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