ケリュグマとディダケー


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                                      神の隠された知恵
                                      Ⅰコリント2章6-9節
       

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  今日の個所は先週とは少し様子が違っています。先週の所では、パウロは、あなた方の所では、「優れた言葉や知恵を用いませんでした」と語りました。しかし今日の冒頭は、「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」と語ります。知恵を用いなかったと語り、その舌の根も乾かぬ先に、今日の所で知恵を語ると言うのです。なぜなら、「それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」と、この世の知恵とは違った、別のもっと優れた知恵があると語ろうとしているからです。

  「信仰に成熟した人たちの間で」となっていますが、元の言葉には信仰という言葉でなく「成熟した人たち」となっています。ただそう日本語に訳すと誤解が生まれるので、文意を取って「信仰に成熟した人たちの間で」と訳したのでしょう。

  初代教会においては、先ず信仰の入門者たちにケリュグマと言われる信仰の基本、中心を教えました。当然でしょう。ケリュグマとは元は、王の使節が人々に語る布告や通達のことです。それは誰も否定できない、疑問の余地のない事実を指します。教会の疑問の余地のない基本的事実とは、イエスの言葉と生涯です。信仰はそこに基盤を持っています。その誕生から受難、死、復活、聖霊降臨、そしてキリストが再び来られる再臨についての宣教の言葉です。ヘンデルメサイアは、このケリュグマの部分を歌にしたと言ってもいいでしょう。一般の人にはなじまない言葉ですが、素晴らしい音楽が助けています。このケリュグマが信仰の基本であり、今日でも同じです。

  しかし初代教会はそれだけでヨシとせず、この基本的な事実をどう解釈し、更にキリスト者は世の中でこのケリュグマをどう生きるかを語りました。これも当然のことです。それは信仰者の社会での生き方から、教会とは何かという教会の在り方まで、様々です。それは教会の教えディダケーと呼ばれました。

  「わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語る」とあるのは、このディダケーのことです。信仰の初歩を学んだ人たちが、次にもう少し深い所で信仰をどう展開し、生きて行くのか。信仰の困難な非常に難しい時代がありますし、平和な時代は平和な時代の困難や誘惑が生まれます。迫害の時代もありますが、個人が重視されて教会組織の意味が軽んじられる時代も来ます。その色々な問題の中で、信仰的に一歩進んだ、「信仰に成熟した人たち」はどう生きればいいのか。

  先週、勧められて遠藤周作原作で、アメリカ人監督の手で作られた「沈黙」という映画を見て来ました。見終わって、キリシタン時代の迫害の酷さ、殺されたのも日本人、殺したのも日本人ですが、人の心の内に潜む残酷さを改めて思いました。残酷なシーンがありますが、時々映像でああいうキリシタン時代を確認するのは決して悪いものでないと思いました。

  あそこまで残酷な弾圧では、宣教師だけでなく、たとえパウロでも――ええ、パウロでもです――転んでしまうのでないかと思いました。それほど酷(むご)い、巧妙な弾圧です。今年、何かの世界的な賞を受賞するかも知れません。既にノミネートされているそうです。軟硬取り合わせた巧妙な手で宣教師を転ばせて行くイッセー尾形扮する井上筑後守という奉行の手練のずるさと言ったらありません。人の弱さをトコトン知り尽くした人物として描かれていました。

  今申し上げたいのは、そういう時代であっても、信仰の基本に立ってどう生きるべきか、教会はどうあるべきかを語るのがディダケーだと言っていいでしょう。実際のそれは、フィリピ書の中やペトロの2つの手紙、またヨハネの黙示録などに迫害時代のディダケーがあります。

  逸れましたが、難しい事を語れば、大変大切なことでも入門者にはチンプンカンプンかも知れません。また譬えですが、今の時代にIT関係の職場に私などが行けば、そこの会話が理解できずチンプンカンプンに違いありません。証券取引所でも恐らく分からないでしょう。

  初歩の方とそうでない方を差別して言っているのではありません。信仰の段階があると言うだけです。成長があります。「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」とあるように、信仰には成長があります。小さい信仰から大きい信仰へ、弱い信仰から強い信仰へという成長です。また自分を中心にした信仰から神を中心にした信仰へという成長です。

  「信仰に成熟」とありましたが、完全になることではありません。フィリピ書で、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と言っているように、真に成熟した人というのは、自分の不完全さを知る人です。しかも自分に諦めないで、捕えようとして、前のものに身を向けて、目標を目指して走る人です。信仰の成長は上にあがって行くと言うより、自分の未熟さや低さをより深く知って歩む人でしょう。

  ただ、どんな人にも信仰の深い所まで進んで頂きたいわけで、いつまでも初歩の段階に留まるのでなく一歩前に進んで頂きたい。でなければ、折角の宝の持ち腐れになるからです。

  また教会では、イエス様の言葉ですが、「後の者が先になり、先の者が後になる」とよく言われます。イエスは決して若者や初心者を軽んじないように、諌められたのです。

  いずれにせよ、信仰の深い所まで進むためにディダケー、教会の教えを参考に、パウロは誘惑の多いコリントの町でキリスト教徒として進んで貰いたかったわけです。

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  さてパウロは、知恵を語ると言った後、ただ「それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」と語りました。

  「神秘としての神の知恵」とありますが、ここにミステリオンというギリシャ語が使われています。神秘や秘義、奥義を指しますが、これはある集団に加入して教えを受けてよく分かっているが、素人には全く分から奥義を指します。要するにこの世の支配者がうかがい知ることの出来ない、彼らの知恵を遥かに越えた知恵であり、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」と9節で語られているものを指します。

  それは長く世の人々や支配者たちの目に隠されていた神の知恵であり、もし支配者らがこれを知っていればキリストを十字架に付けなかった筈だと言い、更にこれは「世界の始まる前から定めておられた」、非常に深い神の御心に宿った知恵だと語っています。私たちが語る奥義としての神の知恵は、世の初めより神の御心の中にあった知恵だと言うのです。

  先週の朝、教会の前の植木鉢からパンジーが幾つか引き抜かれて、あちこち投げ捨てられていました。どういう方か知りません。教会のパンジーをこういう風にするのは、何か訳があるのでしょうか。もしその方が「奥義としての神の知恵」を知っていたら、教会が語る十字架のキリストをご存知なら、そういうことはなさらないでしょう。小さい事ですが、その方の心の荒れや痛みを思って悲しく残念にも思いました。

  「奥義としての神の知恵」です。神の奥義は人の知的な文化的な活動によって生み出されたものでありません。それはただ神の賜物であり、キリストから各自に与えられるものです。それは神と真理を探し求める中で、神が私たちの心に働いて、神の霊によって啓示して下さる奥義です。私たちが発見したと言うより、神が働いて教えて下さった神の御心です。

  この奥深い神の奥義を信仰の成熟した人たちの間で語り、そういうディダケー、信仰の教えに与って私たちは生きるのだとパウロは言うのです。

  私は、これはどんなに大事なことを教えているかを思います。言わば私たち一人一人の目の前には、神の奥義という非常に高価な宝がザクザクと盛られているのです。その山の下にも、もっと沢山の宝が隠されているでしょう。ところがその宝を手に取ろうとしないで、他の所に私たちの目が行っている。足元に宝がザクザクあるのに、そこに目が行かず、別の所に心が行っている。そうなら宝の山も無駄になります。

  もし自分の会社に素晴らしい技術と製品があり、またそれを生み出す技術者がいるのに、そこに目が行かず、他社の技術力と製品に見とれて呆然としているだけなら、その人はその会社で力を発揮できないでしょう。言わば青い鳥を遠くの方に探して、すぐ近く、足元に青い鳥がいるのを見ないのと同じです。

  神の奥義に与っているのに、それに信頼せず、その上に確信をもって立たない。福音に信頼して生きない。むしろ神の奥義など詰まらぬもの、価値のないもの、役に立たないものとしているなら、それは豚に真珠になります。

  しかし私たちは豚ではありません。それは何よりも神がご存知です。ですから私たちは真珠の真価を先ず分かろうとしなければならないでしょう。そうして初めて、信仰をもってイエス・キリストに応えるという生き方が出て来ます。またそういう生き方から豊かな実りが生まれます。

  今日以上に信仰の真価が発揮されなければならない時代はありません。今は砂漠のような時代です。共通の話題を話しているようで心は本当にはつながっていません。飲み屋でワイワイ、共通の話題で盛り上がります。しかし帰り道は寂しいというか、空しい。仕事や営業や利害で繋がってはいますから、ある程度の繋がりがあって安心しますし、そういう繋がりもあっていいのですが、本当に心打ちとけた交わりは余りありません。ですから本心では醒めて限界を知って交わっている。若者たちも人と会うのは苦手。だからメールでやり取りするだけというのも多いです。そもそもそこに永続する真の拠り所を求めても得られないのは当然で、それは一時的な拠り所に過ぎません。

  キリストは、私のために死んで下さいました。そこまで私たちを愛して下さった。キリストの生涯、その苦難と死と復活。ここに神の愛の奥義が秘められています。神は苦しみ、痛む程に私を愛して下さったのです。万物の根源である神がおられるのです。

  私たちは死に向かう存在ですが、その空しい存在、小さな存在をも捨てずに、万物の根源である神がその目に貴い存在として愛して下さった。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と、第Ⅰヨハネにあります。ここに真に拠り所となる愛があります。

  マタイ7章には、畑の中に真珠を見つけた商人は、持ち物を皆売り払ってその畑を買うと、イエスは天国の譬えで言われました。皆売り払ってとは、何という凄い情熱、真実さ、努力でしょう。だがそうする値打ちがあるのが「奥義としての神の知恵」です。

  9節に、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」とありました。私たちに、神は人の思い浮かびもしなかった事を準備されたのです。私たちが信仰に導かれたのは、神のこの愛に愛されたからです。この奥義はどんなことがあっても変わりませんし、誰もこの奥義を私たちから取り去れません。ここに一時的でない、永遠の拠り所があります。

  先程の「沈黙」の監督はこう書いています。「『沈黙』は、次のことを大いなる苦しみと共に学ぶ男の話しです。つまり、神の愛は彼が知っている以上に謎に包まれ、神は人が思う以上に多くの道を残し、たとえ沈黙をしている時でも常に存在すると言うことです。」

  沈黙している時も常に存在する方。私たちが考えるより以上に多くの道を私たちに残して下さる方。小さくない、このような巨大な愛の方こそ、真に拠り所になる奥義ではないでしょうか。

  使徒言行録には、キリストの弟子たち自身が少しずつ、成長して行く姿があります。やがて彼らはイエスを信じるだけでなく、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」ぶようになったと書かれています。それほどに自分を委ねうる拠り所が生まれるなら、喜びと平和がいつも留まるでしょう。人生に悔いはなくなるに違いありません。

        (完)


                                         2017年2月5日

                                         板橋大山教会 上垣 勝




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