自然の人と霊の人


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                                「自然の人と霊の人」
                                Ⅰコリント2章10-16節



                              (1)
  先週の所には、「隠されていた神の知恵」という言葉が出て来ました。今日の10節に、「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」とありますが、「そのこと」とは、この「神の知恵」のことです。この知恵は、神の奥義とも言うべき知恵で、世の支配者が誰も理解しなかった知恵だと語られていました。

  一歩進めて今日の10節では、奥義であるこの神の知恵をどう知るのか。それは、神が送って下さる霊、神の霊によってである。神の霊は一切のことを、あらゆる事柄の深みを探求し、神の御心の隠れた深みまでも究めて下さるからだと語ります。

  神の御心の隠れた深みなど、人知で到底窺い知れぬと思いますが、神の霊はその深みまで究め、私たちにお教え下さると言うのです。それが聖霊の働きです。

  聖霊を求めるとか、神の霊を求めるというのは余り私たちの教会では申しませんが、フランスにあるテゼ共同体はスイス人牧師によってプロテスタントの共同体として始まり、今は幅広くカトリックの人たちも加えています。まずい訳で申し訳ありませんが、「御霊よ、来たりませ、我らの中に、御霊よ祈りませ、我らの中で」と歌って、礼拝をすることがあります。

  そこにあるのは「聖霊よ来て下さい」と、聖霊を祈り求める単純な心です。その単純な心を持ってこの歌を歌っていると、聖霊を祈り求めることがいかに大事かを教えられます。

  数千人が入るテゼの教会の後部から入りますと、大山教会では礼拝堂に入ればすぐ7m程で講壇がありますが、テゼでは前方50mほど先に祭壇が目より下に見えます。その低いステージにテラコッタと言って、オレンジ色の素焼きの穴のあいたブロックが100数十個、3段から5、6段で波打つように変化をつけて積まれています。普段、橙(だいだい)色の電球がそのブロックの中に幾つかに灯されていますが、礼拝ではその100数十のブロックの中にキャンドルが灯され、夕焼け色に染めてチラチラと美しくまたたきます。

  これは単なるステージの美しい飾りでなく、古代ローマキリスト教徒たちが迫害の時代に、カタコンブという地下の洞窟に潜って、壁に窪みを掘りローソクを灯して礼拝しましたが、彼らの信仰に連帯するためです。それと同時に今の時代に迫害を受け、苦難の中で小さくされて苦しみ、祈っている人たちに連帯して、ローソクを灯して礼拝しているのです。

  実際は目立ちませんが沢山のブロックは、過去と現代の苦難の中にある1人1人を象徴しているとすれば、その中でチラチラ輝く灯火(ともしび)は、「聖霊よ来て下さい」、我らの中に御霊の火を灯して下さいと祈る、地上の無数の神の民の切なる魂を象徴していると言っていいでしょう。

  神を求め、聖霊を求める祈りは、やがて必ず困難や厳しい試練を乗り越えさせて下さるからです。テゼはそういう信仰の原点、源泉に戻ることが出来る場所です。

                              (2)
  次の11節は、「人の内にある霊以外に、いったい誰が、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」と語ります。ソクラテスは、「汝自らを知れ」と言いましたが、自分を真に知るのは難しいことです。それにしても、自分のことが一番分かっているのは自分です。自分以外に、誰が自分の心や思いを知るでしょう。

  私が最初に赴任したのは九州の教会で50年近くなりますが、その教会に、当時70代の婦人で、既に腰が2つに曲がり、顔も皺くちゃで、堅く口を結んだいかにも苦労を舐めて来たと言った無口な方がおられて、若造の私にはとっつきにくく窺い知れない所のある人に思えました。気さくなご主人と一緒でしたが、夫人は無口で何を考えておられるのかよく分かりませんでした。

  暫らくして知ったのは、この方はその町の農村部で50年ほど働き、数千人の赤ちゃんを取り上げて来た助産婦さんで、尊敬を受けて来た方でした。ある時お訪ねして話をすると、大変広範な知識を持つ知的な女性であるのを知って、やはり話しを聞かない限り、姿だけでは何を考えておられるのか、どんな人か分からないと痛感しました。

  まさに人の心にある思いを誰が一体知るでしょう、です。ましてや、ここにあるように、神の思いは神の霊以外誰も知り得ないでしょう。

  「隣人は超越である」と言われます。他人の思いは、自分の想像を遥かに超越し超えています。だから良い耳を持たなければなりません。他者は私たちの想像を越えています。だから良い耳を持つと謙虚にされます。ですからご主人が何か言いかけると、「こうなんでしょう」と出鼻をくじいちゃあならない。「あなたの言うのは、分かっているんだから」と言っちゃあならないです。全然、別の、初めて聞く話をするかも知れません。同僚も同じです。人には謙虚でありたいと思います。

  その後12、13節で、だが、「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています」とありました。

  「恵みとして与えられたもの」とあるのは、「気前よく、たっぷりと与えられたもの」という意味です。神から霊を受け、神の聖霊によって導かれる時、私たちは、豊かに気前よく与えて下さる神の恵みを知ってそれに与る者にされるということです。それは人間の知恵で解釈するようなものでなく、神の霊に教えられて心満たされ、喜びを授けられるので、その様な態度を持って語るものにされると言うことです。

  確かに長い間、信仰に満たされている人の態度や言葉は、本人は気づきかなくてもどこか違ってくるものです。み言葉に心を開き、従順であり、信頼すると、変えられて行くのです。

  そして今まで語って来たことを受けて、「つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです」と言います。偽物は本物によって分かります。真理によって偽物の正体が明らかにされます。だが真理を偽物で解くことはできません。偽物が、あるものを真理だと証明したとしても、それは真理とは言えません。真理は真理によって解かれなければなりません。霊的なものである聖書によって、聖書の意味を初めて解き得るのです。

  先程アメリカ大統領のことが祈られましたが、そのうちにトランプ大統領が語るのは本当なのか、嘘なのか、全く分からなくなるでしょう。そうなれば、アメリカは外敵でなく、内部から危うくなり崩壊が始まるかも知れません。また、彼のような憎しみに火をつける、扇情的なイスラムへの攻撃は、イスラムの過激派を焚きつけ、敵をおびき寄せます。これらはアメリカに利するのでなくアメリカを貶めますから、実に愚かです。

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  さて、次の14、15節は今日の中心です。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」とあります。

  「自然の人」と「霊の人」が対比して語られています。ギリシャ語では自然の人はプシュケーの人と言われ、霊の人はプニューマの人となっています。プシュケーの人とは元は体、肉体的な命を指します。犬も猫も皆プシュケーです。霊、プニューマを持っていないのです。

  プニューマは霊と訳されますが、これは人間を人間たらしめるもの。動物から人間を区別し、神の似姿とするものと言っていいでしょう。

  それに対して、プシュケーの人は、自然のままの、肉的・動物的人間。自分中心の人、神中心でなく我欲を中心に生きる人。当然、弱肉強食の考えになります。ですから次の3章3節に「妬み、争いが絶えぬ人」とあるような人になります。真理やキリストによって砕かれていないのです。それで、自己中心の欲が顔をのぞかせます。

  更に言うなら、自然の人は、この世には肉体的、物質的な命の他に何も存在しないかのように生きているのです。物質的、経済的なものだけが意味あるもの、価値あるものと考えている。目に見える価値によってのみ万事を計る。そのため、妬み、争い、不誠実、そして人を裂く分裂が生まれるのです。

  文科省天下り斡旋が、何年も続いていたことが分かりました。文科省の腐敗は、国の中枢部の人物たちの破綻を意味しますが、彼らが日本の教育行政を担って来たと言うのは将来に暗い影を落とします。そこにあるのは自然のプシュケー人です。国の教育行政を担い、教師たちを指導して子ども達に正しい生き方を教える元締め自身が、動物的自己中心的魂だとすれば、恐ろしい事態です。

  自然の人は、神の霊の恵みを受け入れる部屋を持っていない。持とうとしない。その心の余地がないのです。彼にとって、それは愚かで理解できないからとあります。

  それに対して、「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」とあります。判断するというギリシャ語は、裁判で取り調べて判断したり、判断されることを指します。霊の人の判断は、そういう公共性を帯びていると言うことでしょう。信仰者の判断は公け性を持っているのです。

  霊の人とあるのは、神の霊に発する、神の霊の性質を有する人。霊から生まれ、霊に導かれている人のことです。彼は、あらゆることを調べ判断するが、誰からも判断され問い質されないと言うのです。傲慢を勧めるのではありません。人から判断される以上に、神から厳しく判断を受けるという意味を含みます。

  ですから霊的なプニューマの人は、あらゆる事柄の価値を洞察するが、彼の真の価値は誰からも判断されない。ただ神のみが彼を正しく評価し、尊び扱って下さるのです。

  キリストが私たちとつながり、私たちがキリストとつながっている限り、私の真価、真の値打は誰からも判断されないし、神のみが私たちの価値を判断して下さると言うことです。ですから、私たちは神を求めつつ堂々と生きればいい。思い切り生きればいい。何も恐れず、思い煩う必要はないのです。主が共におられます。勇気を持って進めばいい。必ず主は満たして下さるからです。

  こう語って、「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」と結びます。最後の言葉の原文はもっと簡単です。私たちはキリストの心である。あるいは、私たちはキリストの心に生きている、となっています。神の霊に導かれ、キリストの心に生きたパウロの思いが、こう言わしめたのでしょう。

                          (4)
  先週はケリュグマとディダケーの対比でしたが、今日は、プシュケーの人とプニューマの人、自然の人と霊の人の比較です。

  ただ、彼は自然の人を切り捨てるつもりはありません。彼も元々キリスト教徒を迫害するれっきとした自然の人でした。憎しみと争いに生きていた。だが、突然ダマスコ途上でキリストの光を受けて失明し、失明したがキリストが彼の心に入って来られ、彼は霊の人とされていきます。ですから、自然の人も霊の人に変えられるのを知っていますし、彼はそれを望んでいます。

  また人間は100%自然の人でも、霊の人でもありません。信仰を持っても、自分はどこを切っても100%霊の人だと言える人はいません。そんな人になりたくてもなれない。自然の人と霊の人が自分の内に混在します。霊の人であっても、すぐ自然の人、肉の人になるのが私たちです。だから神の憐れみを乞い求めつつ生きるのです。自分を神に委ね、他人のことも神に委ねて生きるのです。

  ですから、私たちキリスト者はキリストへの祈りなしには生き得ない人間なのです。詩編42篇に、「鹿が、谷川の水を喘ぎ求めるように、我が魂はあなたを喘ぎ求める」とあるように、魂の渇きの中で主をあえぎ求めざるを得ない人間です。先程交読した詩編13篇も、「主よ、いつまでなのですか」と繰り返し祈っていました。魂の渇きをもって喘ぎ求めていたからです。あなたは祈らねばならぬ。祈るべきだと言うのでなく、キリストに祈らずにおれないのが私たちの赤裸な姿です。自分は欠けのある人間だから祈らざるを得ないのです。魂が病み、苦しみ呻いているからです。私自身多くの欠けを持つ人間です。

  最初にテゼの祭壇部分の話を致しました。すべての人間は心の真ん中に暗い所を持っています。皆、死にます。必ず死に、朽ち果てます。だから不安です。これでよかったのか、あの人にあんなことをしたままで、よかったのかという恐れ、不安です。その暗い所が、イエスが来て下さる場所です。そこに救い、光を皆求めているのです。だから「御霊よ、来たりませ、我らの中に。御霊よ、祈りません、我らの中で」と祈るのです。誰しも祈り心を持っています。ただイエスに出会わない限り、どう祈っていいのか、何を祈ればいいのか分からないのです。

  いずれにせよ、私たちの暗い所がイエスが来て下さる場所であり、そこに救い、光を皆が求めている。それが祈りです。だから真面目に生きようとする人は祈らざるを得ないのです。その祈りがブロックの中でチラチラ輝いている。それが世々の信仰者の祈りです。神の霊、聖霊を求めて、「主よ来て下さい」と願い求める心であり、神を求めてチラチラ輝くのです。また、心の闇に永遠の命の光である聖霊が来て火を灯して下さるのです。

  私たちは、そういう人たちと連帯して、今を、信仰によって生きています。そして、そういう私たちと今後、100年後、200年後、1000年後のキリスト者は連帯して生きて下さるのです。この信仰の道の貴い重さをよく理解したいと思います。

     (完)


                                         2017年2月12日

                                         板橋大山教会 上垣 勝




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