つらさを抱えながら


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                                      辛さを抱えながら
                                      Ⅰコリント2章1-5節


                              (1)
  1節に、「神の秘められた計画」とありました。これはどこか神秘的に聞こえる言葉ですが、パウロはコリントでは、優れた言葉や知恵を借りず、「神の秘められた計画」を宣べ伝えたと語ります。具体的には何を指しているのでしょう。

  「神の秘められた計画」とは、人の目に隠された神の深い真理のことでしょうが、彼はそれをこのコリントでは、ギリシャの哲学的な抽象的な言葉や知恵を借りて語らず、旧約の太古の歴史に現われた神のご計画をそのまま語った。言葉を換えて言えばコリントにおいて聖書を出来る限りそのまま語ったということでしょう。

  聖書は命の書です。ぜひ1度は全巻読んで頂きたいと思いますが、太古の歴史である旧約を読んで多くの人が引っ掛かるのは、どうしてイスラエルの民は他民族を「ことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」などと他民族の絶滅を語るのか。時に、神が敵の絶滅を命じる個所があるのはどうしてなのかという問です。新約ではそんな個所はありませんが、旧新約は同じ愛の神、平和の神だというのにどうしてかと言う問です。出エジプトの時もそうですが、ナイル川を2つに裂いて敵軍を全滅させますし、カナンに侵入し定着する時代は、敵に対する容赦ない戦いがなされ、特に南北王国時代は凄惨な戦争で血ぬられて行きます。

  ただこれは、21世紀、20世紀の私たちから見た問であって、聖書だけでなく日本でも僅か100年とか200年遡るだけで、敵を絶滅させる歴史が日常茶飯事にありました。それを忘れて聖書は酷いと語るのは少し違います。実は旧約はイスラエルを代表させて、人類の罪の歴史を語るのです。人類の現実、罪の現実です。現実に目をつぶるな直視せよと言うことです。

  それに旧約を丹念に読めば分かりますが、近隣の諸民族を絶滅させたイスラエルは、やがて反対に、強大なアッシリア帝国によって北王国が先ず潰され、次に更に強大な新バビロニア帝国によって南王国が絶滅されて、歴史の闇の中に消えて行きます。むろん敵と見れば手当たり次第に殺されたことは容易に想像されます。その時の王はゼデキア王ですが、彼は目の前で何人もの王子たちを皆殺しにされ、涙を流す暇もなく王は両眼を潰され、縄をかけられバビロニアに連行されて行ったのです。

  旧約聖書がここで語るのは、神の命令の下でイスラエルが近隣諸国に行なった酷い様々な暴力が、今や、同じ神によって自分たち自身に向けられたということです。神はイスラエル以外の民にも、イスラエル自身にも、神を神としない、そして人間を人間としない人類の罪に対する裁きを遂行されたということです。

  その後、更に時代が降ってイスラエルが知るのは、遠くバビロニアに強制連行され、異邦人の圧政の下で苦しめられていた彼らに、突然、解放が訪れたことです。ペルシャ王が登場すると、突如国への帰還が許されたのです。それは彼らの努力や功績でなく、天から降って湧いたような、神の一方的な恵みの解放でした。神の慈しみが離れなかった事を再び知るのです。

  バビロン捕囚という決定的な敗北が、次の時代の出発点になったことです。彼らは敗北を経験し過酷な奴隷生活をくぐる中で、神のご支配を新しく捉え直すのです。それが今、木曜の祈祷会でエズラ記から学んでいる事です。神の導きの歴史があるのです。思い掛けないことが次の時代を開くのです。これはイスラエルの歴史ですが、主を信じて生きる個人の歴史でも思い掛けないことが起こると言うことです。

  そしてモーセ律法を中心とするユダヤ教教団が生まれて行きます。ただこの教団がやがてイエスを十字架に付けることになります。だがそれと共に旧約の中に、新しいメシアを待ち望む預言者たちが登場します。彼らが預言したのは、新しい王メシアは軍馬にまたがらず、武装せず、柔和で平和なロバの背に乗ってやって来ること。人に仕える、へりくだった王なるメシアであるという預言です。だがユダヤ教団はこのような柔和なメシアは遂に信じませんでした。

  以上纏(まと)めると、イスラエルは神の選ばれた民です。だがその民は自分の選びを誇って傲慢になったために、徹底的に砕かれねばならなかったのです。砕かれてこそ、新しいメシアを待ち望む民に作り変えられるのです。それがキリストにつながり、それが神のご計画になって行きます。

  パウロが今日の所で、「神の秘められた計画」と語るのは、人の目には隠されていたが、旧新約の歴史を通して証しされて来た一歩一歩、あるいは人類の誕生から一つ一つの神のご計画のことです。それを、ギリシャ人の優れた言葉や知恵の言葉で、一般的な真理として語らず、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めて」、「“霊”と力の証明に」よって神のご計画を語ろうとしたと言っているのです。

                              (2)
  パウロはコリントに来る前は、アテネで哲学者たちと論争しました。しかしギリシャ哲学を用いた論争の実りは少なかったと使徒言行録にあります。それにこの頃、ローマ皇帝クラウディウスが首都ローマからユダヤ人の強制退去を命じたので――歴史にはそんなことが急に起こることがあります。例えばトランプは不法入国のメキシコ人300万人の強制退去とか言って脅しています――、クラウディウス帝の命令が出たので、ユダヤ人のパウロは言動に相当の注意が必要になりました。その上、彼はテサロニケ、ベレアなどを通ってギリシャに入りましたが、いずれの町でもパウロ個人への排撃運動が広がり、暴動が起こる始末でしたから、彼は相当参っていたのです。

  「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」とあるのは、その事の反映です。ここは彼の人間性が垣間見られる興味深い個所です。彼のような強靭な精神をもち、大胆で且つ優れた人間でも、疲労困憊し、衰弱し切り、酷い不安に陥る事があったのは、私たちには慰めかも知れません。「酷く不安でした」とあるのは、原文では、不安な中でブルブル体が震える状態を指します。衰弱して弱り果て、恐れに取りつかれて震えていたのでしょう。

  またパウロが不安に駆られたのは、ギリシャ文化の中心アテネやコリントに来て、その華やかな文化に圧倒されて自分の根拠が定まらなかったせいもあるでしょう。

  そこで彼は、ギリシャ哲学や人の知恵に溢れた言葉によらず、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めて」活動することにしたのです。彼はギリシャ内外の知恵や言葉を巧みに取り入れ、輝くような雄弁な言葉、舌を巻くような弁論で逞しく語る所から一歩退却して、信仰の基本に立ち戻って語ったのです。

  先週の木曜日に、大宮のあるお家にバザーの品物を頂きに自動車で行きました。帰って来て教会の押し入れに詰めましたが、翌日、あそこに何か面白い物があったと思って取り出しましたら、金色に輝く素晴らしい2個のグラスです。見ると24Kとありました。24Kとは純金です。手に取ると重い。今、金の価格は分かりますか。1グラム約4600円です。重さを測ると100g少しありました。4600円×100g、1つ46万円、2つで90万円です。びっくりしました。それでこれを買い取ってくれる所を探して、池袋の何とかいう店が高そうだから持って行こうとして、その前に大山の金の買い取り店に行って見せたのです。鑑定士が眼鏡を嵌めて覗いていました。そしてこう言ったのです。「24Kとありますね。ただ次にGPとあります。これはゴールド・プレイテッド。金メッキです。値打ちがありません。」ガクッと来ましたね。

  パウロギリシャ哲学を用いてどんなに雄弁に語っても、それはメッキです。メッキなど人々に何の力も与えません。彼の腹の底まで確かなキリストの福音。中まで純金である価値ある力ある福音をそのまま語らなければ、本当に福音の価値を伝えることはできない。だから彼は彼の信仰の基本に立ち返って、ギリシャ哲学者の言葉や知識を借りたり披露したりして語るのをやめ、信仰の核心である十字架のキリストをコリントの人たちに語ったのです。

  彼はキリスト以外は忘れようと一大決心をした。この方にこそ、「神の秘められた計画」が明らかに啓示されていると考えたからです。そして、キリストが人の心に語りかけて下さる「“霊”と力の証明」によって語った。即ち信仰の確信と聖霊の導きのみによって語った。コリント人たちも「人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるため」だったのです。

  ビジネスの世界では、言葉巧みな人間より、訥弁だが誠実で誠意がある人の方が成功すると言います。いかに立派な事を述べても、事実が伴わなければ信用されません。パウロギリシャ的弁論や雄弁の世界から、もう一度十字架に付けられたキリストという信仰の原点に戻って始めたのです。

  「キリスト、それも十字架に付けられたキリスト」です。つくづくイエスのことを考えると、この方こそ本当の辛さをイヤという程味わった方でしょう。弟子の一人に裏切られ十字架に付けられました。味方に裏切られる。信頼し愛していた人からやられる。これ程、無念な事はありません。普通なら怒り心頭に達するでしょう。だが、イエスはそれを全て飲み込まれました。丸呑みにされました。だからこそ、この方の所に行くと私たちの無念も傷も癒されるのです。私たちの無念が吸収される。イエスは十字架の上で、私たちの辛さを分かち合われるからです。

  「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決め」たとは、凄いと思います。ここまでの集中、ここに我は立つ。なぜなら、自分だけでなく、全ての人間は例えボロボロにされたとしても、このお方によって支えられ、再出発させて下さるからです。

  今、世の中に、辛さを抱えている人が一杯います。経済的な問題や人間関係の問題、個人的な問題など。人生や魂の問題、心の問題を抱えて、それらを聞いてもらえる所がないのです。解決される場所がない。あるようでない。テレビでは親身に聞いているような番組はあるが、実際にそんな人が聞いてくれません。大抵放送に出演して、見せているだけだったりします。親身になって真剣に聞いてくれる人がいない。そもそもこの世に、イエス以外に真に受け留めてくれる人がいるでしょうか。

  いつもとは言いませんが、誰しも孤独な魂を痛感して暗闇に襲われることがあります。創世記に出て来るアブラハムは、ある日、恐ろしい大いなる暗黒が彼を襲ったと書かれています。行く先を知らずに、故郷のハランを旅立って何年も経った。だが後継ぎも生まれず、これからどうなるのか。原因は何かはっきり分かりませんが、大いなる暗黒が、あの信仰の父と呼ばれた彼をも襲ったのです。将来に大いなる不安を抱いたのでしょう。

  彼の孫のヤコブエサウと双子ですが、兄を2度も騙し、遂にエサウから命を狙われて、母の故郷に逃亡しますが、危ない最悪の事態を迎えていた不安な旅の途中、ある所で石を枕に眠っていると夢を見ます。先端が天に達する階段が、地に向かって伸びており、その階段を天使が上り下りしている夢です。その時、神が語られる言葉を聞いて飛び起き、恐れおののいて、「ここは、何と畏れ多い所だろう。これはまさしく神の家、天の門だ」と語ります。

  彼が今いるのは最悪の状態ですが、その場所が神の家、天の門。彼が野宿しているその場所も神の支配される場所であり、天への入り口であると言われた時、膨大に膨れ上がった不安がすっかり払拭され、旅を続けることが出来たのです。この事があって、母の故郷で叔父のラバンの下で20年間苦労しますが、その苦労をも十分担って行けたのです。

  信仰はいたって単純です。ただ神を受け入れるだけです。そこから全てが始まります。イエスにおいて自分を支えて下さる根拠を持つ。その時、衰弱していても、恐れに取りつかれていても、状況が変わり始めます。

                             (3)
  最後に、「知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明による」とあることに触れて終わります。

  ある人がほとほと行き詰ったことがあったそうです。心労のために精神的にも肉体的にもすっかりくたびれ、倒れてしまいそうになっていた時、先輩のキリスト者が手紙をくれたのです。

  開封すると文語訳聖書を引用して、「人の歩みは、エホバによりて定められる。その行く道をエホバ喜び給えり。たといその人倒るることありとも、全く打ち伏せらるることなし。エホバ彼が手を支え給えばなり」と詩編を記して、「あなたは今、バッタリ倒れていていいのです。バッタリ倒れていても、主が手を取って起こして下さるのだから」、と書いておられた。今は倒れていていいと言う言葉に大変励まされましたと言われたのです。神の霊と力がその方を力づけたのです。

  たとえバッタリ倒れてしまっても、主が手を取って、時が来れば起して下さる。後から気づけば、バッタリ倒れていた分、倒れなかったよりも成長させて下さることさえあるのです。倒れたことが却って財産になて生かされるのです。

  社会は猛スピードで走りますから、人生を猛スピードで走り抜けたい人がいるかも知れません。しかし今も詩編にあったように、人の歩みは自分の計画と違い、主が定められるのです。ですから自分はこうありたいと思っても、トップ・ギアでなくロー・ギアでゆっくり走らなければならない場合が起こります。焦って猛スピードだけを夢見てはいけない。そうじゃあなく、ロー・ギアこそ主のご計画であり、次のスピードを生み出す備えになることがあるのです。それが実人生です。

  霊と力の証明とは、常識を越えて神が働いて下さる、神による証明です。人の知恵を越え、理性や理論やソロバンを越えて、神が働いて下さるならば、たとえ辛さを抱えていても、自分が考えたよりもっと素晴らしい人生が開けるのです。そのような神の現実を変える力に出会って信じて頂きたいと、パウロはコリントでは、もっぱらキリストだけを語ると言う事をしたのです。

         (完)

                                            2017年1月29日

                                            板橋大山教会 上垣 勝




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