希望の根拠


                         リヨン美術館で(28)         右端クリックで拡大
                               ・



                                               人類を照らすまことの光 (中)
                                               ヨハネ1章1ー14節



                              (2)
  希望の光が、私たちに命の光として届けられるのは、この方の「意志」があるからです。私たちを愛してやまない、愛の意志があるからです。愛を持つ者は相手を生かそうと希望を与える言葉を語ります。人を潰すのでなく、夢をくじくのでなく、その前途に光があるように語ります。そうでなければ、育つ者も元気に育ちません。人間存在の前途を照らし、励ますキリストの光は、私たちを励まし、前進する勇気や希望を授けるものです。

  今年一番ショックだったのはアメリカ大統領にトランプが決まったことでした。トランプでジョーカーが出たと思いましたね。相手を非常に酷い言葉でやっつけ、嘘八百のような虚言のようなものを語り、都合悪くなるとサッと引っ込めて、また図々しく攻めて行くという、実に厚かましい態度に多くの人が絶句しました。かなり大多数の日本人は辟易(へきえき)して、ああいう人物でいいのかと思っていると思います。しかしそれを気持ちいいと思う人が居る訳で、世界は不思議です。先週は、アメリカは偉大にならなければならないから、核兵器をもっと増やすべきだと語りました。恐ろしい人物です。

  こういうものが世界のあちこちに伝染して勢力を増し、余りまだ大きく言われていませんがその最初の走りが日本だったと思いますが、イギリス、アメリカその他で民族差別や異質な人への嫌がらせが横行して、このままだとやがては民主主義は萎み、環境は悪化し、暗黒時代が来て、世界は絶望の淵に落とされるのでないかという不安があります。相当に生まれています。

  この時代に一番必要なのは、私たちの身近な所で希望の種を蒔くことでしょう。希望の小さい種を蒔く人。希望の小さい芽を見つけ育てることです。自信をなくさせる言葉でなく、人を励ます心を持ち、そういう言葉を語って行くことです。

  5才から俳句をして、小学校からいじめなどで不登校になり、中学の今も不登校の少年が、14才の俳人と言われて俳句を作っているそうで、私は見ませんでしたがテレビでしていたそうです。日野原重明さんともう何十通かの手紙のやり取りをし、大阪のだんじりの町、私の故郷ですが岸和田から上京して何度も会っているそうです。104歳でまだどこかに希望の種を蒔ける所がないかと、日野原さんは蒔いておられるのではないでしょうか。

  今日はオバマ夫人のことを申しますが、夫人は、今、世界が希望を持たないということはどういうことなのかを理解し始めていると言っていました。トランプの登場で、です。希望を持たないで、何を持つというのでしょう。希望以外に、子供たちに何を与えられるというのでしょうと語っていました。トランプが多くの若者を失望させたからです。夢を奪ったからです。

  「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とありました。一時は闇が深まるかも知れませんが、キリストから発せられる光はベツレヘムの馬小屋から発せられ、輝いているのです。静かな光であり、弱々しく見える光です。権力を誇示しませんが、人の心の奥まで届く真実な光です。万物はこのお方によって成ったのです。だから、万物の根底にこの方がおられますし、このお方によって万物は育てられます。誰もこの光を阻止出来ません。

  だがその光を、「闇は理解しなかった」とあります。これは闇たるものの本質を突いた言葉です。だがそこに闇の問題があり、闇は光を理解しようとせず、光を出来るだけ潰そうとします。

  しかし「理解しなかった」というギリシャ語には、実は「勝利しなかった。打ち負かせなかった。征服出来なかった」という別の意味があります。それで前の口語訳は、「闇はこれに勝たなかった」と訳していました。多くの英語訳聖書は、今も、「闇はこの光に勝たなかった」と訳しています。

  闇は光を理解しないのは誰でも分かります。だがここでは、そういう安易な訳を取るよりも、「闇はこれに勝たなかった」と訳す方が、前後関係からもっと適切であり、メッセージとして一貫して来ます。

  闇は光を理解しないでなく、「闇はこれに勝たなかった。」ここに希望の根拠があるとヨハネは語るのです。一時は闇が力を奮うかも知れません。聖書は闇の本質を見抜いています。歴史の中でそういう事は幾度もありました。だがそれは一時です。ですから私たちに忍耐が必要です。信仰の確信を捨てず、耐え忍んで、光が回復する時を待たなくてはなりません。約束のものを受けるためには、忍耐が必要です。

  パウロがロマ書5章で、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、…神との間に平和を得ており、…キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と語り、続いて、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」と語っています。神によって義とされ、神との間で平和を得ているなら、苦難が来ても、苦難が忍耐を生み、忍耐する中で練達が生じ、練達する中で希望が生まれる。これが神の平和に与った人たちに授けられるレガシー、遺産です。

  またコリント前書でも、「愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」と、堅く信仰に立って色々なものに動かされず、忍耐して労苦することは決して無駄にならないと呼びかけています。

  光が射しさえすれば、一瞬にして闇は消えます。青年時代に会社の同僚と富士山に登りました。頂上付近に着いた時はまだ真っ暗でしたが、暫らく休憩所で休んで、3時頃に起きてご来光を待ちました。黒々した雲海が果てしなく続いて、辺りはまだ暗かったですが、太陽が昇ると一瞬にして闇は駆逐され、下界の素晴らしい眺めが雲海の間から広がりました。光は一瞬に闇を駆逐します。

      (つづく)


                                            2016年12月25日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・