罪の棚卸が大切です


                         リヨン美術館で(20)          右端クリックで拡大
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                                                   故郷の人々 (下)
                                                   マタイ13章53―58節


                              (3)
  一体これは何を言いたいのでしょう。この個所のメッセージは何でしょう。

  ヨハネ福音書1章は、「言(ことば)は、自分の民の所へ来たが、民は受け入れなかった」と記しています。言はギリシャ語でロゴスですが、イエスを指します。自分の所とは直接的には故郷の人々の所ですが、更にこの世を指します。

  この方はベツレヘムで生まれ、ナザレで育たれますが、故郷の人々によって象徴されるこの世は、先程から申していますようにイエスを受け入れなかったのです。今も本当のキリスト者というのはアメリカでもイギリス、ドイツでも少数者です。この世はイエスをなかなか受け入れません。

  ローマ書16章25節に、「この福音は、世々にわたって隠されていた秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて…」とあります。キリストの福音は何千年、何万年にわたって、世々、世界の歴史を通して隠されていた。だが神の計画を啓示する、神の秘められたご計画であるキリストの福音によって、人類の歴史の初めから明らかにされて来なかった事が、今や覆いを取られて明らかにされたというのです。

  今日はイエスの誕生を待つアドベント第2週ですが、クリスマスに始まり、イエスの全生涯において、これまで誰の目にも隠され、思いも浮かばなかった神のご計画が、信じる者には眩しいほど希望の輝きとなって、明らかにされたのです。ユダヤ人だけではありません。全ての異邦人、全人類にもたらされる福音です。だが故郷の人々もこの世もなかなか受け入れないのです。

  ヨハネ福音書1章14節に、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。また18節に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とも記しています。

  更にヨハネ3章は、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と語っています。

  今私たちに必要なのは、ナザレの人たちのように信じない者になるのでなく、信じる者になる事です。あの3人の博士たちのように、黄金、没薬、乳香で表わされる捧げもの。それは物でなく自分自身を捧げることを象徴していますが、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてこのお方を迎えて、愛することです。

  教会暦では、今日は旧約イザヤ書59章も読まれます。そこには、「主は贖(あがな)う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると、主は言われる」とあります。この故郷の人々もイエスへの対抗意識や嫉妬を捨て、頑固な罪を告白して悔い改めたなら、そこから新しい歴史が始まったでしょう。

  主イエスは罪を悔いる者のもとに来るのです。後悔と悔い改めとは違います。後悔は過去を思い浮かべてくよくよと思うのですが、悔い改めは罪からの180度の方向転換です。主に向かって自分の罪を告白して、すっかり罪を棚卸(たなおろし)するのです。罪の棚卸を神の前でする時に、心が軽くなります。棚卸した後に神の平安が訪れます。「罪を悔いる者のもとに」とは、罪の告白をする者のもとです。

  私は、今後洗礼を希望される方々は、出来るだけ「イエスに罪の告白をして下さい」と申し上げたいと思います。洗礼は罪の告白を伴わざるを得ないものです。言いにくい事ですが、主に罪を打ち明け、主から永遠の赦しを授けられてこそ、主の恵みと平和、喜びが訪れるからです。

  NHKのアナウンサーに、山根基世さんという方がいます。今もNHKでしょう?小学4年の時、クラスに軽い身体障碍の男の子がいたそうで、口数は少ないが、口を開くと寸鉄(すんてつ)人を刺す言葉を投げつけたそうです。山根さんは、差別はいけないと固く信じる少女でしたが、ある時、何かが原因で、その子から思い掛けない鋭い言葉で侮辱された。瞬間、怒りで逆上し、決して口にしてはならない言葉を投げつけていたというのです。悲しいかな、咄嗟に反射的にしてしまったのでしょう。

  翌日、母親からの申し出があったらしく、先生が、その子に暴言を吐いた覚えのある生徒は前に出なさいと言ったそうで、数人の男子が出た。その時、山根さんは胸が震えたそうで、自分も出るべきだと思ったが、どうしても出ることが出来なかったそうです。それがずっと心の重石(おもし)になったのです。聖書で、イエスが逮捕された後のペトロの否認を読むと、その日の胸の震えが甦ると書いておられました。

  ペトロは外に出て激しく泣いたのです。むろん泣くだけでは心の重荷は降りなかったでしょう。平和は来なかったでしょう。しかし、彼は悔い改めの涙を流した故に、復活の主にまみえた時に、「あなた方に平和があるように」という言葉を、ズッシリ腹にこたえる自分への赦しの言葉として震え上がるほどの畏れと喜びを持って受けたのです。赦されざる者への愛の言葉として聞き、心を揺さぶられたのです。主の赦しに与った喜びに心震えたのです。

  聖書で「赦し」とある言葉は、幾重もある監獄の扉が遂に開かれて、囚人が晴れて自由になることを指します。そのように、罪の縛りが解けてすっかり解放されること。その時に、信仰の真の喜びが始まり、罪の桎梏から解放されます。

  コリント後書に、「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」と書かれている通りです。対抗意識を捨てて、素直にイエスの来臨を喜ぶのです。自分の所に来て下さった事を喜ぶのです。アドベントは、このように心の底から新しくして下さるお方を、心から待ち望む期間です。

         (完)

                                            2016年12月4日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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