人間関係の悩みの原因…


                         リヨン美術館で(19)          右端クリックで拡大
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                                                   故郷の人々 (上)
                                                   マタイ13章53―58節


                              (1)
  ルカ福音書が終わりましたので、クリスマスの時期は暫らく、教会暦で取り上げている聖書を選んで福音を聞きたいと思います。

  お読み頂いた所は、アドベントと無関係に見える地味な聖書個所です。しかも故郷の人たちはイエスに躓(つまず)いたというのですから、消極的なメッセージしか出て来ないように思われます。しかし聖書はどこを切り取っても、神の愛の血が噴き出ています。地味な場所ですが、ここからこの個所が語る独自な福音を聞いて見たいと思います。

  私たちはそれぞれ独自な存在でしょ。ここにいる皆さんもそれぞれ顔も違い、家庭環境も違い、仕事場も職種も収入も違うし、独自な歴史を辿っている訳で、独自な者として用いられて行く筈です。独自の使命があります。それと同じようにこの個所が語る独自の福音があるのです。それを聞いてみたいのです。

  「イエスはこれらのたとえを語り終えると」とあったのは、ガリラヤ湖畔で教えられた種まきの譬(たと)えなど、多くの譬えを指します。13章1節から52節までに記されている譬です。

  「故郷」とあるのは、イエスが育ち、父の後を継いで大工をしておられたナザレの町です。

  「会堂」とあったのは、ユダヤ教の会堂、シナゴグの事です。むろんまだキリスト教会はありません。シナゴグでは、有識者と思える人が来ると会堂で教えることを求められました。イエスはシナゴグでも、13章に出ている、群衆や弟子たちにお教えになった譬えを話されたかも知れません。

  ところが「人々は驚いた」のです。これは原語は驚愕する、肝を潰す、大恐慌になるという言葉です。大恐慌が起こるほど、相当驚いたのでしょう。

  そこで彼らは、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と、2度にわたって最初と最後で「どこから得たのだ」と訝(いぶか)ったのです。

  「知恵」とあるのは、分別や知性、賢明さや聡明さを指します。その知恵に接して動揺したのです。「奇跡を行なう力」とあるのは意訳で、元の言葉は単に能力、力ある業という言葉です。彼らは素直にイエスを受け入れず、この男はペテン師でないか。誤魔化しでないか。その知恵は、誰かから拝借したものでないかと疑ったのでしょう。今で言えば、研究や論文の盗用でしょうか。

  そして57節は、「このように、人々はイエスにつまずいた」と記しています。立腹するという意味もありますが、自ら罠にかかったのです。

  そこでイエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と語り、 故郷の人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかったというのです。

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  イエスガリラヤ湖畔で大勢の群衆に語り、その後弟子たちに話されてから、山を越えてガリラヤ中部の盆地の町、故郷のナザレに里帰りされたのです。久し振りの帰省でしょうか。

  ところが会堂で話を聞いた人々は、この男は、これ程の知恵と奇跡を行う力をどこから得たのか。奴はただの大工の小倅(こせがれ)ではないか。母はマリア、弟たちはこれこれ、妹たちは結婚して我々の間で暮らしている。この男と家族全員の事は小さい頃から我々はじゅうじゅう良く知っている。奴はこんなことをすべて、いったいどこで手に入れたのだろう。」

  ナザレからガリラヤ湖までは、2、30キロです。歩いてもそれほど遠くありません。町には、中風の人や盲人や口のきけない人を癒したり、ガダラの狂人を癒したりしているというイエスの活動の噂を聞いていた者もいたでしょう。中には商用でガリラヤ湖周辺に出掛けて噂を聞いた人がいたかも知れません。

  ところが今、イエスから直接話を聞き、優れた知恵に感嘆したのですが、素直に驚嘆だけしていればいいのに、この男は若死にしたあの大工の小倅でないか。父親も倅も、その知恵も器量も我々には分かっている。あの男が、そんな筈がない。これはどうしたことだ。どっちみち、この知恵と奇跡の力はペテンだろう。誤魔化しだ。誰かから拝借して来たものに違いない等と疑ったのです。故郷の人々は対抗心をもって、素直にイエスの言葉と力を受け入れなかったのでしょう。

  こうして躓いたのです。この段落の直前の52節で、「だから、天の国の事を学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と語っておられたとありますが、故郷の人々は古い世界に住んだままで、自分の倉から古いものしか取り出せず、新しいものを取り出せなかった。イエスの新しさを、イエスが語っておられる、神の国から届く新しいメッセージを受け付けず、躓いたのでしょう。

  2千年前です。故郷の人は殆ど文字に触れたことがありません。例外的な人を除いて、纏(まとま)った物を読んだことなどほぼありません。そういう中で、イエスの纏った常識を覆す程のメッセージを耳にして脅威を覚えた筈です。自分の低さや貧しさをイヤという程知ったでしょう。自分の貧しさに素直になればいいのですが、反対に劣等感を抱いて反発した。嫉妬と対抗意識が生まれ、無論イエスを信じた人も少数はいたようですが、殆どの同郷人は嫉妬で後ろに引いたのです。

  ナザレの人たちは、対抗意識という罪の問題を抱えて、素直に新しくなれなかったのです。私たちも罪が絡み、張り合うと素直になれません。私は彼らの気持ちがよく分かります。この年になって思うのは、自分の最大の問題は対抗意識であったと思います。対抗意識があるから嫉妬が起こります。俗に女性は嫉妬深いと言いますが、男も相当に嫉妬深いです。

  嫉妬深いと対立的になり、人間関係がうまく行きません。人間関係の悩みの原因の殆どは、他にもありますが、この対立的な自分です。素直に受け入れさえすればいいのですが、感情が許さない。特に自分より目上の人に対して、力ある人に対していつの間にか対抗している。すると生きづらさが生まれます。生きるのがしんどい。反対に、弱い人や下の人には親切で思い遣りがある。ところが上の人とは衝突し易い。それを越えれば大きく育ちます。

  彼らはこういう罪を抱えて、神の国から届けられる常識を覆す程のイエスの新しさに素直になれなかったのです。コンチクショウというような思いが心に浮かんで、そこからイエスを見たのです。

  イエスは神から遣わされた新しい人です。人間の世界に、全く新しい神の次元が突入して来た。その神の新しさが気に食わない。そこには恵みとまことが満ちているのに、やせ我慢してこれに躓いたのです。

  ですから、「驚いた」とありますが、驚きというよりいぶかしがった。怪しんだのです。

  故郷の人々のこのような反応に、イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言って、 人々の不信仰ゆえに、そこではあまり奇跡をなさらなかった。少しはなさったのでしょうが、殆どなさらなかった。

         (つづく)

                                            2016年12月4日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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