前進できる場所は必ずある


                          リヨン美術館で(16)         右端クリックで拡大
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                                                全世界に伝えられる福音 (上)
                                                ルカ24章44-53節


                              (序)
  今日は、2012年からほぼ4年半、ルカ福音書10章以降から始めて取り上げて来ました、その最後になります。

  先週は、復活のイエスのユーモアという事をお話しました。確かに聖書にはユーモラスな出来事があちこちにあります。22章には、ゲッセマネの園でイエスは、ユダの接吻による裏切りに遭って逮捕されます。その時、弟子の一人が短剣で大祭司の僕の片耳を切り落とすということが起こります。ところがイエスはすぐに彼を叱って、鞘(さや)に収めさせ、僕の耳に触って癒されたのです。

  中世の画家がこの場面をユーモラスに描いています。ユダが今イエスに接吻をし、武装した役人らがイエスの腕を捕えて引き立てんとしている場面です。それにも拘らずイエスは右手を伸ばして、へたり込んだ僕の耳を癒しておられるのです。ところが僕の表情たるや、癒されて、実に気持よさそうな顔をしている滑稽な場面です。殺気立っているのに、イエスに耳を癒された僕は実にうっとりした平和な表情で、本当に面白いです。

  5年前にフランスのリヨンの美術館で見た時はそんなに思いませんでしたが、ルカ福音書を取り上げる中で、暫らく前にこの絵を思い出しハッとしました。中世の人もイエスのユーモアに気付いていたのです。神の国から生きておられるイエスは、このような場面でも落ちついておられ、ユーモアがおありなのです。

  また、箴言31章が賢い妻について、彼女は「力と気品をまとい、未来にほほえみかける。」前の口語訳は、「力と気品とは彼女の着物である、そして後の日を笑っている」とあることをお話しました。死に打ち勝って、最後究極的に復活して来られた方は、究極以前の様々な険(けわ)しい場にあっても、ほほえみ、笑っておられると申しました。

  私たちに必要なのは、最後的究極的勝利を信じて、未来にほほえみかける生き方です。苦虫を噛みつぶしたような怒ったトゲトゲしたあり方でなく、肩の力を抜き、リラックスした、未来にほほえみかける倫理であると申しました。心では泣いているかも知れませんよ。いや、色々な事が合って泣いているでしょう。もう厭(いや)になっちゃって泣けて来ますよ。だがキリストの勝利を信じ、未来を笑っているのです。

  そういう中で、アメリカで予想もしなかった事が起こった訳ですが、向こうの新聞に、オバマさんが今、家庭で、娘さん達に話している事が出ていました。15歳と18歳の娘さん達に、これじゃあ、もう世の終わりだと思って思い煩ってはならない事。むしろ君たちは、「そうだ、前進し続けることが出来る場所は必ずどこかにある」と自分に言い聞かせなさい、と語っているというのです。

  娘さん達へのこのアドバイスも、後の日を笑って、未来にほほえみかける倫理です。トランプさんが政権を取っても、世の終わりではないのであって、絶望してしまわない。むしろ今も前進できる場が必ずあると信じて、立ち向かって行くあり方です。

         (つづく)
 
                                            2016年11月27日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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