焼魚とキリスト


                          リヨン美術館で(14)        右端クリックで拡大
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                                                 キリストと焼き魚 (3)
                                                 ルカ24章36―43節



                              (3)
  少し難しい所に入りますが……、神にとっては死生を越えていますから、それらは同じです。究極の方から見れば究極以前のものの姿は同じです。復活のイエスという究極のお方は、焼魚という究極以前のものをもムシャムシャと簡単にお食べになるのです。現実世界を遥かに超えて存在されるからです。

  言わばイエスが弟子たちの前で愉快に遊んでおられるのです。ご自分の実在を示すために肉体を越えて自由であることを、焼魚を食べることでユーモアを持って示されるのです。超越者の自由さです。これが私たちから見ると「もどかしい」のです。

  弟子たちはイエスを失い、もはや未来はないと思い詰めていた男たちです。エマオに下る2人の暗澹たる姿はそれを実によく象徴していました。他の福音書では、ガリラヤに戻った弟子たちは、何もする力が湧きませんでした。肩を落とし、魂の抜け殻のようになって、皆、無口でただ毎日集まるだけです。しかも11人が揃わない。ただ7人だけ。歯抜けのようなガタガタの姿であったことが報告されています。そんなある日、ペトロが私は漁に行くと言ったら、他の者もついて来た。何もする気が起こらなかったのです。イエスを失った彼らにはもはや未来がなかった。

  ところが、今日の所に、突然イエスが、「あなた方に平和があるように」と言って弟子たちの集まりに入って来られた。すると、突然目の前に未来が開け、「戦慄のようなものを覚え、驚愕を覚える中で、突然の喜び」を与えられたのです。暗黒の世界から、思いがけず急に明るい光の中に出れば、誰しも声をたてて笑ってしまうでしょう。光の下で、今まで恐ろしかった暗黒の力が急に相対化されたからです。これまで恐れていた自分らが可笑しいからです。それがユーモアです。信仰者はそのような解放をイエスから与えられたのです。

  私たちは現在のように肉にある限り、その本質はとても脆(もろ)く危なっかしい存在です。繰り返し囚われた者、束縛された者、緊張している者です。だがキリストは既に世に勝っておられる。だから肩の力を抜き、ユーモアを持って、安心して生きていいのです。気張らずに生きていい。

  私たちの所には絶対というものはありません。絶対は私たちになくていい。絶対はただ神だけです。私たちは絶対の一歩手前で生きる者であり、焼魚を喰うイエスは絶対に理解できないのであるが、イエスは弟子たちの前でそれをムシャムシャと食べられて、絶対者の存在をお示しになったのです。それがもどかしい。弟子たちはその深い真意を絶対に理解できません。だが理解できない事をイエスはユーモアを持って行われるのです。

  イエスは焼魚を「食べられた。」ここからユーモアが起こります。イエスが彼らの真ん中にいる。恐れるな。たじろぐな。そのことがもうユーモアです。ユーモアの源は紛れもなくイエスにあります。復活のイエスの実在を分かってもらうには、焼魚でも食べるしかないでしょう。漫画のようなユーモラスな場面で、復活のイエスがご自分を現わされたのです。気落ちする彼らを元気づけるため、励ますためです。弟子たちがうろたえるのを見て、イエスはクスクス笑っておられたのではないでしょうか。

           (つづく)
                                            2016年11月20日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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