悟りの目が開く
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悟りの目が開く (4)
ルカ24章28-35節
(3)
「すると、2人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」とありました。考えさせられる面白い場面です。「見えなくなった」とあるのは、原語では、光を放たなくなる、くすんで見えなくなる、消えるという意味です。
2人の目が開いた。すると姿が見えなくなった。悟りの目が開いた。すると肉体を持ったイエスは消えたのです。不要になったからです。もはや目に見えるイエスは不要。くすんでしまっていいのです。目に見えなくても復活のイエスは世界に実在され、私たちの心に実在されるからです。誰がイエスの復活を否定しても実在されるからです。幻想ではありません。
長崎のキリシタンたちはそこまでキリストの実在を信じていました。だから殉教の道をも敢えて選び取って行ったのです。名前がはっきりしている殉教者だけで約3千人でしょ。無名の人も合わせれば数万人に上ります。新井白石は確か5,6代将軍時代の人ですが、その少し前の第3代将軍家光時代に、20万から30万人のキリシタンが迫害で餓死したと述べています。
私たちが日々祈るのは、この実在されるキリストに対してです。このお方と活きた交わりを持ち岩のように確かな支えを与えられるためです。復活のキリストこそ永遠に実在される方です。私たちを世界の根底から支えて下さる方です。ここに、永遠に変わらぬ平和と喜びと希望の泉が湧いています。
彼らは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合ったのです。彼らはその時すでに、心に喜びの火が点火され、希望が生まれ、元気が出、暗澹としていた思いが消えて晴れやかになり、勇気が出て来たのです。でも、それが最終でなく、そこから進んで、自分たちが話していたのが復活し今も実在されるイエスだと知る所まで導かれて行ったのです。そういう深い所まで導かれるのです。
すると彼らは、「時を移さず」直ちにエルサレムに出発しました。エルサレムから10数キロ、2時間半ほど歩いて来て、再び2時間半以上かけて戻るのは非常にきついことです。以上と言いましたのは、帰りは上りの坂道だからです。それに陽がとっぷり暮れて夜道は危険です。だが、彼らは食事代を払い宿泊をキャンセルして、勇んで引き返しました。
エルサレムに着くと、「11人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」
「11人とその仲間が集まって」語り合っていたのです。今はガスレンジですから、大抵の方は竈(かまど)の使い方をご存知ないでしょう。竈に1本の木だけをくべても、火がついてもすぐ消えます。だが何本かの木がくべられる時は勢いよく燃え上がります。太い木だけでなく細い小枝などがあると一層よく燃えます。信仰は誰かに話し、誰かと共通の経験や共通の記憶を分かち合う時に、喜びが2倍、3倍になり、自分のものになって行きます。自分の心にだけしまっていては、その大きさだけで留まり、豊かにされないのです。
2人が戻って見ると、そこには既に自分らの経験をガヤガヤ話す弟子たちがいました。中でもシモン、3度主を知らないと否んだペトロに復活の主が現われたことが喜びを持って語られていたのです。イエスはペトロを怒ったり破門せず、ご自分を現わされたのですから。もう自分はダメだと思っていたのに、不信仰も弱さも失敗も吹き飛ばす出来事が起こったのです。
彼らは喜んでその群れに加わって、自分たちも道であったことや、パンを裂いて下さった時にやっとイエスだと分かった事を、自分たちの愚かさををユーモラスに笑いながら、だが心からの感謝を込めて話したのです。先週も申しましたが、信仰のユーモアがここにも活き活きと出ています。そして来週の個所にはこの信仰のユーモアが更に続いて行きます。
(完)
2016年11月13日
板橋大山教会 上垣 勝
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