孤食の食卓に来られるキリスト


                          リヨン美術館で(10)         右端クリックで拡大

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                                                  悟りの目が開く (3)
                                                  ルカ24章28-35節


                              (2)
  さて民宿に泊った彼らが―当時は粋なホテルなんてないほぼ民宿ですよ―、食事の席に着くと、いつの間にか、「イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のです。2人がイエスを引き止めたのですから、イエスは招かれた客です。ところがなぜか客がテーブル・マスターになり、引き止めた者らが客になって、主客転倒しています。イエスが食卓の主(あるじ)として感謝し、パンを裂いてお渡しになると、「2人の目が開け、イエスだと分かった」のです。

  イエスは、最後の晩餐でしたのと同様の祈り、同様の手つきで配られたでしょう。「すると彼らの目が開いた」、悟りの目が開いた。それでイエスだと分かったのです。彼らのイエスに対する開眼は、イエスご自身が与えられたのです。イエスが主(あるじ)である時に悟りが起ったのです。イエスと私との、この主客転倒が信仰生活において大事なのです。

  イエスがパンを裂いて配った。言わば聖餐式です。その聖餐のパンを感謝して受けた時、彼らの目が開いた。聖餐というのは、キリストに対する私たちの目を開かしめる大切なものです。またキリストを中心に私たちを1つに結びつけるものです。聖餐は、キリストを中心とした交わり、命の交わり、喜びの交わりへと導くのです。

  以前に申しましたが、画家のレンブラントはこの場面を描いています。宿の女将さんが食事を運んで来ます。しかし彼女にはキリストが見えません。だが2人の客たちの目が開いて、一緒にいるのは復活のキリストだと分かります。思わず彼らは両手を上げて目を見張ってキリストを見ている場面です。女将さんには馬耳東風というか、キリストとの出会いも喜びの交わりもありません。

  しかし考えさせられる事は、この食事は本来、宿の食事です。聖餐式でなく普通の夕食です。そうならば、復活のキリストは私たちが普段夕食のテーブルを囲んでいる所にも来ておられ、私たちと交わっておられるということを告げています。教会にだけキリストがおられるのでなく、普段の皆さんの家庭に客人として来ておられるのです。見えません。でも慰め深く共におられるのです。

  トルストイの童話に「靴屋のマルチン」というのがあります。マルチンは夕べにがっかりします。とうとう神様は今日、自分の所に来られなかったと知ってガッカリするのです。しかし、彼が目を閉じて祈る夕べの祈りの内に声があって、「私は今日あなたに会いましたよ。あなたは雪かきの男を部屋に入れてあげたでしょう。寒さに震える女の人と赤ちゃんにミルクを飲ませてあげました。またリンゴを盗んだ男の子の代わりにお金を払ってあげました。実はそれらはみな私だったのです」と言われます。

  それでマルチンはとても驚き、自分は世界一可哀そうな人だと思っていたが、もっと可哀そうな人がいる事に気付き、更に、神様はいつも自分の事を見ていて下さる事が分かり、大変嬉しい幸福な気持ちになったのです。

  靴屋のマルチンは一人ぼっちですが、たとえ私たちが一人だけの食事でもその孤食の食卓にキリストは来ておられるのです。

           (つづく)

                                       2016年11月13日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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