3つの祈る喜び


                          リヨン美術館で(9)         右端クリックで拡大

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                                                  悟りの目が開く (2)
                                                  ルカ24章28-35節


                              (1)
  さて28節以下には、「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」とありました。

  「一緒にお泊まりください」と無理に引き止めたのは、単に陽が落ち、夕暮れが迫って夜道は物騒だからと言うだけでなく、イエスの説明を聞くうちに闇に光が射すような不思議な心の明るさ、なぜかホッとさせられ、過去と将来が見えて視野がグンと広げられ、力と希望が湧いて来る思いがしたからでしょう。だからぜひご一緒にお泊まりして下さい。もっともっと話しをお聞きしたいと思います。もっと親しく接したいのですと切に願ったのでしょう。

  十字架で死に、3日目に復活されたキリストは、聖書全巻を通してご自分について書かれていることについて、死のこちら側でイエスが行い、話された言葉や業などの現実のことだけでなく、死の向こう側の世界をも指し示された。だから希望と喜びが与えられて、彼らの心が熱く燃やされたのでしょう。「私を信じる者は、たとい死んでも生きる」とあるような未来を拓き行く力が授けられた。

  話はそれますが、私が日々キリストに向かいますのは、無論イエスがご自分の名によって祈る事を許可して下さったからで、この許可がなければ祈りは聞かれません。その上に立ってですが、キリストをほめ称(たた)えて一日を始めると、気持ちがスッキリと晴れるからです。日々の生活には、誰しもごちゃごちゃとゴミのようなことがあり、心には抜いても抜いても日々雑草が生えます。そういう中で、人間が向かうべき肝心な方向に心が向くと、今日もしっかり生きようという積極的な建設的な思いになります。その方(かた)から来る心の平和、キリストの平和です。それが心をスッキリさせ、日々の歩みを整えるのです。またキリストの前に出ると、ゴミゴミしたクズのような考えを後ろに投げ捨てることが出来ます。

  また、祈りの時に読むみ言葉が、心を満たします。先週は他の個所と共に箴言を読んでいました。例えば、「何事かを目にしても、性急に争いの場に引き出そうとするな」という言葉がありました。この言葉に心が引き締められました。この言葉を肝に銘じたいと思ったのです。また「侵略されて城壁の滅びた町。自分の霊を制しえない人」とありました。霊や感情が爆発する人がいます。押しとどめられまない。自分の感情の爆発をコントロールできないなら、城壁が崩れた町と同様、そこから敵が攻め込んで来てやがて滅びるでしょう。私たちは、自分の感情や霊、また言葉をコントロールすべきです。また、「蔭口は食べ物のように飲み込まれ、腹の隅々に降って行く」とありました。蔭口は腹の底までストレートに入ります。だから蔭口に対して用心しなければならないのです。そういう人間にも用心しなければならない。私たちが陰口を叩く人を避けたがるのは良好な判断です。このように箴言は私自身が身を正し、祈りの中でもう一度出発点に立たせてくれます。み言葉に導かれる時、人の魂は健全にされるのです。

  第3番目は、教会員、求道者、客員、皆さんの事が祈れる喜びです。これが、会員が400人とか500人いたら牧師は教会員の名を上げて祈れますか。恐らく祈らないでしょう。50人ぐらいがちょうどいいのです。そして祈る事が出来る皆さんを、キリストから授けられていることは、私の心を楽しませ、憩わせます。本当に感謝に思います。

  皆さんも、教会につながる方々の事を日々祈ってご覧になれば分かります。祈りの連帯により、喜びを与えられずに置かないでしょう。この小さな教会の群れのメンバーである事、祈り合うメンバーが与えられている事。これは私たちの優れた資産だと思います。

  さて2人の弟子は復活のイエスだと知らずに、無理に引き止めました。「無理に」とあるのは、ギリシャ語で強引に、力ずくで、かなりの激しさでの意味です。出会いは一瞬です。すべてのものに時があり、時を逃すと再び好機は来ません。2人は咄嗟の判断でイエスを無理に引き止めたのです。それが良かったのです。

  現代人は、イエスに対しても上品になり過ぎているかも知れません。救いを求めて、強引にすがりつく激しさが必要です。そういう祈りをして差し支えないのです。イエスの方も彼らが強いて引き止めたので、「共に泊まるため家に入られた」のです。こういう強引さは許されるでしょう。ルカ11章で、イエスは祈りについて譬えを話され、「友達だからと言うことでは起きて与えるようなことがなくても、執拗に頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」と語って、執拗に神に求めるように語られたのです。この執拗さがなければ、2人の目は遂に開かれず、どうして話を聞いた時心が燃やされたのか分からずじまいに終わったでしょう。

           (つづく)

                                       2016年11月13日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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