一言で心がつながる


                           リヨン美術館で(3)          右端クリックで拡大
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                                                 心を一つにしよう (下)
                                                 Ⅰコリント1章10‐17節


                              (3)
  彼は、自分はコリントの町に洗礼を授けるために来たのではない。主(おも)に、キリストの十字架を、福音を宣べ伝えるために来たのだと言います。なぜなら十字架の言葉、福音のみが皆を結びつけ、一つにするからです。

  それで彼は17節で、「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」と語ったのです。

  クリスチャンが増えるのは嬉しい事です。信仰者なら誰もが歓迎します。だが数がいかに増えても、「自分を捨て、自分の十字架を負って私に従いなさい」と言われるキリストに従おうとする信仰者が生まれなければ、意味は半減します。

  洗礼は最終目標ではありません。それは信仰生活のホンの始まりに過ぎません。その目標はキリストの福音が持つ、高さ、深さ、長さ、広さ、大きさを知って、神とキリストに栄光を帰し、自分の十字架を積極的に担い、この世の課題を担って行くためです。先週の言葉で言えば、「み国を来たらせ給え」という祈りを抱きながら、神の平和と正義がこの世で行われることを祈り求めて生きることです。

  だからこそ彼は、キリストが自分をお遣わしになったのは、「福音を告げ知らせるため」であり、「しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」と強調したのです。

  即ち、福音を告げて、人々がキリストの十字架による解放と自由、罪の赦しと信仰義認を与えられ、喜びと平和を与えられて元気を取り戻し、イエスがこの世でなさったように世に仕える人が1人でも多く生まれるように。信仰の内容を理解して生きるキリスト者が生まれることによって、心を1つにする喜ばしい教会が生まれるようにと願ったのです。

  ところで、「言葉の知恵によらないで告げ知らせる」とはどういうことでしょう。前の口語訳は、「知恵の言葉によらないで」と訳していました。ギリシャ世界では、知恵の言葉や言葉の知恵とは哲学を指します。別の日本語訳はここを、「学者の喜びそうな難しい言葉を一切使わず」と訳しています。言葉の知恵とは今で言えば、哲学や思想的な言葉、また難解な神学的専門用語のことを指すかも知れません。

  悪口を言う訳ではありませんが、大教会には錚々たる論客たちがいることがあります。そこで飛び交う言葉はまるで神学校か、神学研究所にいるのでないかと勘違いするような雰囲気があります。長老会でも聖書研究会でも、高度な議論へと吊り上って行くこともあります。私は一概にそれを悪いと言っているのではありませんが、しかしではそういう難しい議論をする人たちの子どもが、今教会につながっているかと言うと淋しい限りです。何故か信仰を継がないのです。

  信仰がキリストの十字架の活き活きした出来事、聖書が語る生きた言葉から離れて、難解な議論や専門知識になれば、子どもや若者は興味を失い信仰を継ぎません。彼らには、十字架は自分と無関係な、「空しいものに」なります。

  イエス様は、「アバ父よ」と言って祈られました。これは家庭で小さい子どもが使う言葉です。そんな日常的な情愛深い言葉を、イエス様は父なる神に向かって語って交わっておられたのです。こういう単純素朴な信仰なら子どもにも通じます。これは次元が低い信仰と言う事ではないのです。たとえ難しいことを語っても、そういう祈りの深い家庭では信仰が継がれています。

  それから又、信仰が単なる生き方や倫理になってしまうと、ボランティア活動や地域活動、またヒューマニズム的な活動をしていれば敢えて教会につながらなくてもいいという事になります。これもまた十字架の真の意味が「空しく」なっているからでしょう。

  滋賀県の琵琶湖の近くに止揚(しよう)学園という、創立54年になるキリスト教福祉施設があります。重い知恵遅れの子どもや大人たちの施設で、一年を通じてスタッフと24時間共同生活をしています。私もそこで何日か生活したことがあります。琵琶湖に注ぐきれいな川が流れ、6月には蛍が飛び交うので皆で川辺に腰掛けて蛍を見るのです。今年も皆、蛍を見に出掛けて幻想的な世界に引き込まれたようです。

  「ほ、ほ、蛍来い」などと歌いながら見ていたそうで、すっかり堪能してそろそろ帰ろうと腰を上げた時、重い障碍を持つある女の人が、「蛍さんも、早く電気を消して、寝えや」と声をかけた(止揚第2号)。皆、ドッと笑ったのです。「蛍さんも、早く電気を消して、寝えや。」何て優しい心でしょう。実に素晴らしい。こんな一言で仲間も職員も心が一つになり、ああ、今日もよい日だったと心が繋がる。それが止揚学園です。知恵の言葉や偉い権威ある人の言葉でなくても、心が温かく一つに繋がるし、その方が愛に近いと思います。そのような事が自由に起こる世界は素晴らしいです。ここに何か深い人間の真実が潜んでいると思います。

  なぜ勝手な事を言うことになるのか。それはキリストの十字架の恵みに集中していないからで、自分こそ、自分たちこそと言う、張り合う気持がある。「仲たがいする」というギリシャ語には、「意識的に割れ目を作る」という意味合いがありますが、十字架に目が行かなくなるとそういう悪しき心が現われるのです。

  だが、キリストにあって心を1つにする時に、外に向かって喜びながら証が出来ます。バラバラなら力を発揮しませんが、心が1つになれば、キリストを最大限に証しできます。

  そして多様な者がキリストにおいて一致している姿は実に美しいです。そこには命の輝きがあります。パウロはそういう一致した教会をこの手紙で指し示そうとしているのです。


         (完)

                                            2016年10月30日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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