人生の帳尻は合うのか


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                                                 人生の帳尻は合うのか (下)
                                                 Ⅰコリント1章4-9節


                              (3)
  ところで、それに続く言葉はどういうことでしょう。「キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」とあります。

  「賜物に何一つ欠けるところがなく」とありましたが、皆さんはいかがですか。自分の賜物は満足なものがないとか、色々欠けが目立つと思っていらっしゃらないでしょうか。むろん自分自身の賜物を考えればそうかも知れません。ただ、この「賜物」とあるのはギリシャ語でカリスマの「カリス」と言う語で、神が送って下さる恵み、神の恵みのことです。という風に申しますと、自分に与えられている恵みは不十分である。不足しているとお思いになるかも知れません。いかがですか?

  ところが、神の恵みは十分届いているのです。パウロはそのことに触れて、第Ⅱコリント12章で、「主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と語ります。自分に対する神の恵みは十分与えられている。この認識が彼を強くし、自分の弱さに逃げないようにさせたのではないでしょうか。弱さの中で神の恵みが十分発揮されて来るのですから、弱さの中に逃げたり、弱さから逃げずに、弱さの中に留まりながらキリストによって強く生きたのです。

  では次の、「主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる」とか、「主も最後まであなたがたをしっかり支えて下さる。」「主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださる」とはどういうことでしょう。

  彼は、キリストが再び来られる「キリストの日」について述べています。即ちキリストが最後に再び現われて下さる再臨の日を待とうと語って、その最後の日まで、主があなた方をしっかり支えて下さるようにと語るのです。

  教会に生きる信仰者は、プロテスタントカトリックギリシャ正教も、終末を、主の再臨を、再び主が来られる日を待ちつつ、今を生きる群れです。終末を望みつつ今を生きているのです。――これは「ものみの塔=エホバに証人」の言うような終末ではありません。この辺は重要ですが今日は触れません。――キリストを信じたら、全てがうまく行き、解決される訳ではありません。祈っても仕方がないと言っているのではありません。祈りこそ神との交わりですから祈るべきです。だが、祈ったら、全快する。問題が皆解決する。才能がメキメキ発揮されるようになる、ではない。そんなのは嘘です。ごまかしがあります。

  聞かれる祈りと、聞かれざる祈りがあるのです。私自身沢山の祈りが聞かれましたが、聞かれなかった祈りもあります。今も聞かれていない祈りがあります。努力さえもこの世で報われないかも知れません。水の泡かも知れません。バザーの聖句は「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」でした。だが、そういう真面目な心で生きましても、人生はうまくいかないかも知れません。中でも、虫のいい祈りは聞かれません。神は私たちの言いなりになる僕や奴隷ではありません。

  だが、聞かれざる祈りを持ち解決せざる苦しみを持って、だからこそ私たちは、「主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる」のです。「主が最後までしっかり支えて、主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にして下さる」ことを待っているのです。

  終末にキリストが来られ、全てが解決され、私たちの涙がことごとく拭われるからです。今の一時の苦しみは、主の来臨の恵みに比べれば言うに足りません。私たちは今のこの時代を、「み国を来たらせ給え」と祈りつつ生きるのです。

  教会は、いまだ正義と平和が実現されない世界の中で、「み国を来たらせ給え」と祈る群れです。

  別の面から言いますと、私たちは、既に2千年前に来られたキリストにおいて救いを知っています。ベツレヘムで生まれ、ナザレで育たれ、やがてガリラヤで宣教をはじめ、多くの人々を熱い愛を持って愛されました。そして十字架に磔になり、3日目に復活し、やがてキリストの霊・聖霊が弟子たちの上に降り、救いが全世界に宣べ伝えられました。このお方を信じることにより、神に義とされ、キリストにおいて賜物に何一つ欠ける所がないようにされました。しかし未だ、神の国が来ません。だから今もその国が終末的に到来する希望を抱いて、待ちつつ生きています。

  既にキリストにおいて神の国の救いの前触れを味わいました。だがやがて再びキリストがおいで下さる時には、私たちの涙はことごとく拭い去って下さでしょう。その最後の日まで主がしっかり支えて下さり、その日に非の打ちどころのない者にして下さるように願うのです。

  申し上げたいのは、キリストは希望の根拠であるということです。この方が最後に来て、人生の帳尻を合わせて下さるのです。キリスト者だけでなく、全人類、先程述べた車椅子を押すあの80歳の方にも、また人生は帳尻が合わないと考えている人たち全てにも、帳尻が合って胸がスッとする日が来るでしょう。それがキリストにおいてあるのです。

  キリストの現われが終末にある故に、身を慎んで、世の課題を負い、身を引かず、現代の課題に身を入れて生きるのです。「み国を来たらせ給え」と祈りつつ、今を真剣に生きる。真剣と言っても眼の釣り上がった真剣さでなく、やがてみ国が来るのですから肩の凝らないあり方で、ユーモアを持って今を生きるのです、

  スピノザという哲学者は、「永遠の相の下で」考えると言いました。永遠の相の下で見るなら、一切は過ぎ行きます。神のみ国からすれば、一切のものは暫定的なものです。一時的です。永遠ではありません。「キリストが再び来たり給う。」そう確信して心が定まると、世についての恐れが消えます。憎しみも消えます。根本的にはいつもただ愛すること、いつも人のために存在することが心を支配するでしょう。

  こう言っても、私たちが世を支配したような絶対的な気持ちになって、胸をそらし、大股で町を闊歩(かっぽ)するという事ではありません。大股でなく小股で、小刻みの足取りで謙虚にイエスに従うのです。地の塩として皆の中に入って、溶け込んで中から塩味をつけながら生きる。

  私たちが、「キリスト・イエスによって神の恵みを受け」、「キリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされ」るのは、人を支配するためでなく人に仕えるためです。キリスト者は人々への奉仕を遂行するためにこの世から選ばれ、「主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」

        (完)


                                            2016年10月23日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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