結ばれ、喜び、豊かにされて…


                           ローヌ川辺の白鳥         右端クリックで拡大
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                                                 人生の帳尻は合うのか (中)
                                                 Ⅰコリント1章4-9節


                              (1)
  さて、パウロは今日の所で、「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と述べています。

  暫らく前に申しましたが、コリントという町はローマ帝国第2の国際的商業都市で、人の出入りの激しい猥雑な町であり、アカイヤ地方の首都でした。ギリシャ多神教が祀られ、この商都の住民は誇り高い魂を持ち、傲慢で、不道徳の街としても天下に名を馳せていました。この町にパウロが足を踏み入れ教会が生まれますが、パウロが去ると、社会に蔓延する色々な問題が教会に入って来て、不倫問題、売春婦との関係また教会をかき回すユダヤキリスト者たちによる分裂問題、偶像への供え物や教会とは一体何かなど、様々な問題が起こって教会が大揺れに揺れました。それで、この教会をキリストの教会として堅固に立てて行くために、パウロエーゲ海の対岸の町エフェソから送ったものです。

  先ずパウロは、コリント人が神の恵みを受けたことがどんなに嬉しく、喜びに満ちたものであったかを書いています。この間の祈祷会で、この個所の「あなた方」という言葉を「大山教会の人たち」に置き換えてお読み頂きましたが、出来れば、後で読み替えて読んでみて下さい。「私は大山教会の人たちが、キリスト・イエスによって、神の恵みを受けたことについて、いつも私の神に感謝しています。大山教会の人たちはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。…」こうして読むと、この個所がかなり身近になります。

  パウロは、子どものような純粋な魂を持って、あなた方がイエスによって神の恵みを受けたことにいつも感謝していますと喜んでいます。まるで子供らが砂浜で珍しい巻貝か何かを拾って、目を輝かせて喜ぶような姿です。彼はコリント人らがイエスによって受けた神の恵みのことを思い、彼自身がかつてダマスコ途上で復活のイエスに出会い、その恵みに心躍らせた日の事を思いつつ、コリントの人らの事を純粋に感謝しているのでしょう。

  第Ⅱコリント1章に、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」とありますが、彼自身が苦難の中で慰められた神の慰めを持って、コリントの信徒らを慰め、励ますのです。ここに、世にキリスト者が誕生することのまたとない喜び、天国の恵みに与った人を心から祝福する姿があります。それはいかに力強い、決定的な一歩であったかの感謝です。これは今日も同じです。誰であれ、私たちも一人一人のキリスト者を、「イエスによって神の恵みを受けた」人として、先入観なしに素直に喜び迎えるべきです。先入観なしにということが大事です。

  彼は2節で、コリントの信徒らを、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」と呼びました。先入観なしに呼んだのです。

  聖なる者とは、前の訳では聖徒となっていました。聖徒は英語でセイントです。猥雑な街にある教会にこの世の悩ましい問題が入って来て、彼らの中に罪でうす汚れた人たちがいることが明らかになりますが、パウロはなおコリントの信徒たちを手紙の冒頭で、聖徒、聖なる者とされた人々と呼んだのです。パウロは福音の本質から彼らを見たのです。それは彼ら自身が人間的努力や資格で聖人になったのでなく、罪に汚れ、汚れた所を持ちながら、神の恩寵の選びによって、キリストが決定的に関係を持って下さった人たちだからです。

  今も同様です。ご自分をどんなに悲観的にご覧になり、また誰かがキリスト者をけなし、悲観的に見ても、そして実際に何も取り柄がなくても、なおキリストはその方を受け入れ、決定的に関係を持って下さっています。「彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって義とされるのである」とローマ書が語る通りです。そのことが今日の所では、「あなた方が、イエスによって神の恵みを受けたことを、わたしの神に感謝しています」と語られているのです。

                              (2)
  次に、「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」とあります。「キリストに結ばれ」とありますが、この「結ばれ」が肝心です。この結び目から恵みが入り込んで来るからです。その結ばれ方は、私がキリストに結びついたのでなく、キリストが私たちをご自分に結びつけて下さったのです。枝がブドウの木に結ばれていれば、いかに豊かに実を結ぶか。私たちはこの夏に知りました。僅か1本の巨峰の木から130房も実りました。それはバザーの用品をお届け下さった方々にも届けられ、ブドウがバザーの成功にも一役買いました。夏の体験は、巨峰を食べることに主眼があったのでなく、いやありました! だが、それだけなら詰まらないです。ブドウの木を通してキリストと私たちの結びつきを黙想するためです。生活のあらゆる機会を通してキリストと私たちの関係を黙想し、熟考する。それが信仰の態度です。

  キリストに結ばれるなら、特に内的に固く結ばれるなら、結ばれている事を心から感謝し喜ぶなら、必ずあらゆる言葉、あらゆる知識においても、全ての点で豊かにされていくのです。恵みで満たされ、喜びの言葉が湧いてきて、信仰の知識も生まれます。キリストの恵みに与り、その働きに触れることで、水が低きに流れるようにキリストから豊かな賜物が与えられます。

  これが「証し」です。第Ⅱコリント4章に、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」とあります。証とはキリストの恵みを指し示すことです。

  それが、「キリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなった」と言われていることです。

        (つづく)


                                            2016年10月23日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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