涙は口よりものを言う


                 テロ―広場の噴水の彫刻は必見。心打たれました。     右端クリックで拡大
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                                                 聖なる者たち (下)
                                                 Ⅰコリント1章:1‐3節


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  他にも色々申し上げたいことがありますが、追々お話しすることにして、別の角度から今日の個所を考えましょう。

  フロイスの「日本史」というのがあります。今から約430年ほど前、秀吉時代に書かれた長く在日したポルトガルの宣教師の日本史です。文庫版で12冊ありますが、15年程前に読んで大変感動しました。信長篇、秀吉編、大友宗麟編など、当時の日本の支配者とのやり取りや環境、農民や武士たち、仏教の状況など驚くほど克明に活き活きと活写されて、当時の人々の肉声が聞こえ、驚きます。初めて日本人とは何者かを知ったような気になります。フロイスは信長と18回も会見しています。当時の日本を知る絶好の読み物で、意欲のある方はぜひお読みなさるといいでしょう。

  その中に、今の大分県、豊後に既に慈善病院が作られ、貧しい人たちに奉仕をしていたことが書かれています。薬局には、必要なあらゆるものが遠くマカオから取り寄せられて、貧しい人たちの治療にあたっていたので、日本人に驚嘆の念を起こさせた。特に宣教師らが少しも現生利益を求めていない事を知って本当に驚嘆しています。

  仏教は当時、そういう慈善に興味がなく、それは低級な事と軽蔑していたので、キリスト教徒の隣人愛に人々は魂が揺すぶられるほど心打たれたのです。確かに今もキリスト教の病院は全国に多数ありますが、仏教の病院はある事はありますが、ええ、ありますよ、が、ごく少数です。それはいいですが、こういう中で豊後の殿様大友宗麟キリスト教に改宗します。宗麟が信仰を持つまで約20年の才月が掛ったようです。

  当時、豊後にトルレスという宣教師がいました。非常に年老いていましたが、毎日黙想に数時間を過ごし、体は巨漢だが、酷く貧しい粗末な食事を取り、絶えず断食もし、冬の寒さが厳しい時も暖を取らず、火に近づくのを誰も見たことがなかったそうで、その上殆ど常に素足であったと書かれています。

  彼は、修道士らが小麦を挽(ひ)くつらい仕事を喜んで手伝い、力仕事がある時は直ちに手伝って材木や石を運搬するのです。高齢に拘わらず。夜9時に、翌朝の黙想の為に修道士たちに指示を与えて、やがて就寝時には、いつも決まってロウソクを灯して自分の部屋を出て、先ず司祭館に泊って学んでいる少年たちの所に行って、寒さで健康を損なわないように布団をかけてやる。それから台所に行き、召使いらが怠けて釜や鍋を汚れたままにしたり、食器を洗っていないと、井戸から水を汲んで来て全部を洗い、それぞれの所にしまって台所を掃除したそうです。それから2頭の馬がいる厩舎に行って、汚れていると掃除し、馬に夜食を与え、飲み水を汲んで来る。こうして全てを見周り戸締りが出来ていると、部屋に戻って休んだそうで、翌朝は最初に起きる人たちの一人であったと書かれています。

  こうは言ってもトルレス宣教師はゴチゴチの仕事人と言うのでなく、胸の中に熱く燃える愛は非常に大きく、中でも彼の喜びは貧しい人や孤児や身寄りのない人たちに援助の品を与えることであったと言います。だからこそ遥々マカオから取り寄せることをしたのでしょう。また彼の明るい笑顔は素晴らしく、それに神様から涙を流す賜物を頂いていたそうで、数か月会わないキリシタンが来ると、最初の挨拶は涙を流して喜ぶ事であったそうです。涙は口よりものを言ったでしょう。泣きべそもこうなれば恥ではない。純心な方だったのでしょう。

  今日の聖書の、「神の御心によって召されてキリスト・イエス使徒となったパウロ。」そういう熱い思いがトルレスの心を貫いていたのでしょう。み言葉に生かされていた人であったので、これらを感謝と喜びを持って行ったのでしょう。

  教会とはギリシャ語でエクレシアと言います。呼び集められた者という意味です。神とキリストに呼び集められた人たちがいるのが教会です。罪多く、罪赦(ゆる)されて招かれたのです。選ばれたと言っても選民と言えるような者ではありません。だが、この者らにとっては神とキリストは究極的な方です。この方が最後的、究極的なお方だから、究極以前の全ての事柄に対して、深刻になり過ぎない関わり方が出来るのです。深刻になり過ぎない関わり方とは、最後から一歩手前の真剣さを持って関わることです。この世の事柄を絶対化せず、醒めた目を持って関わるのです。

  言葉を換えて言えば、最後的、究極的なお方を知れば、それ以外に対してはユーモアが生まれます。自分に対しても、他者に対してもユーモアが、ゆとりが生まれるでしょう。だからでしょう。先程のトルレスは病気になっても誰をも煩わせず面倒をかけず、「この詰まらぬ老いぼれ。いったいお前は何の役に立つのだ」と言うのが常であったそうです。きっと自分を笑ってそう言ったのでしょう。自分を笑い飛ばした。最後的、究極的なお方を知っていたから、どんないわれなき仕打ちにも彼を激昂させはしなかったのです。そういう自由を持っていた。キリストにある自由です。

  私は到底そんな所まで達しませんが、ここまでの信仰の深まりを目指したいと思います。この世の事柄は必ず移り変わるものであり、生まれては消えるものですが、一時的な、暫定的なものに過ぎないものへの温かい目。ねぎらいの目、深刻になり過ぎない目を与えられたいと思います。

  祈りましょう。

         (完)

                                            2016年10月9日




                                            板橋大山教会 上垣 勝




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