40年顕微鏡をのぞき続ける


                    ブックストアに入ろうとしたら……騙し絵でした!    右端クリックで拡大
                               ・


                                                 聖なる者たち (中)
                                                 Ⅰコリント1章:1‐3節


                              (2)
  次に、「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と書いています。

  教会は、キリストの体です。神のために作られ、神がご支配されるのが神の教会であって、それはパウロのものでも、ペトロのものでも、ユダヤキリスト者のものでもありません。教会の創始者は神であって、神の使命を頂いて、神の栄光のために喜びを持ってその地域で働くのです。また、神の教会である限り、神が責任を持って持ち運んで下さり、最終的に神が責任を取って下さる。だから神に全てを委ねて、身を軽くして進むことができるのです。

  言葉を変えて言えば、召されたお方の召しに相応(ふさわ)しくあろうとし、絶えず召されたお方の所に帰らなければなりません。軍隊の経験はありませんが、軍隊では司令官の指令を受けて行動します。職場でも社長の指示に従います。司令官の指令を受けるのであって、自分勝手に戦ってはなりません。

  「神の御心によって召されてキリスト・イエス使徒となった」者は、特にそうです。使徒とは全権を委ねられた大使です。天才は自分一人で立ちますが、使徒はキリストと共に立つのです。

  他の場所で申しましたが、最近の多くの牧師たちが心配です。真にみ言葉に聞いているのか、聞こうとしているのかと思います。というのは、私自身十分であるとは思っていませんが、多くの若い牧師たちは聖書をしっかり読んでいません。聖書は日々新しくそこから聞くべき書物です。だがある牧師たちは1度も聖書全巻を読んでいなかったり、活発に活動して尊敬も受けている人が1度程しか読んでいなかったり、せいぜい2度か3度です。

  私たちの司令官はキリストであり、神です。特に牧師にとってはそうでしょう。だが、その神の言葉を記した聖書からみ言葉を聞かないでどうして人々や教会を導くことが出来るでしょう。

  東工大大隅さんがノーベル医学生理学賞に決まったと報道されています。新聞では、大隅さんは40年間顕微鏡をのぞいて来た。顕微鏡をのぞくのが何よりも楽しみだったとありました。

  キリスト者は、中でも牧師というのは聖書をのぞくのが楽しみの人間である筈です。今の時代に対する神の声が活き活きとそこから聞こえて来る。自分への語りかけも聞く。だから嬉しくてならず、楽しみでならず、聖書に聞くのです。顕微鏡をのぞくのが楽しみであるのと似ています。

  牧師は、聖書によって砕かれ、力を得るのです。聖書にしっかり砕かれなければなりません。他の神学書だとか、一般の書物だとか、それらを読むのも大事ですが、聖書以外のものから主として力を得ていても神からの今の時代へのメッセージを届けられません。それでは他の人がした研究とか成果に乗っかって読書発表をしているだけになります。神の御心に直接ふれ、そこから喜びを与えられて生き、語り、活動するのでないなら教会に命がなくなるでしょう。

  あるアメリカ人が書いていました。「多くの牧師たちが人生の終わりに最も悔やむのは、神が準備された良いチャンスを用いなかった事だ。」耳が痛いです。また」神がせっかく授けて下さった熱意をもって進まなかった事。また神の寸法にあった大きな夢を追いかけなかった事」だというのです。恐れが決心を鈍らせ、生き方を小さくし、神への信頼が足りないために大胆に生きることができないというのです。考えさせられますが、これは牧師だけでなく、全ての人に言えるでしょう。大隅さんが40年間顕微鏡をのぞくのが楽しみであったというような所から、全てが始まると思います。これは聖書や顕微鏡だけでなく、人生一般、他の分野にも共通するものです。

  パウロが、「コリントにある神の教会へ」と述べ、それを言い換えて、「イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」とか、「キリスト・イエスによって聖なる者とされ、召されて聖なる者とされた人々」と語っているのは、そういうキリストに集中してみ言葉を聞こうとし、それを喜びとしている人たちの事です。

  それから、教会はキリストの体でありますが、教会というのは、「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」、また「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」の群れと言っています。どういうことかと言うと、教会はキリストに根差す深い意味を持っていますから、抽象的な言葉で言い表わさなければ言い表わせない面がありますが、それと共に実際的に一人一人の顔が見え、それぞれに個性がある人たちが集められているのが教会です。具体的な個々人を大切にしない、神学的な、理念を掲げる教会が増えていますが、それは喜びと悲しみと苦しみを抱えて生きる現実の人間を捨象した、具体的人間を抜きにした教会になる傾向が現われます。だが、パウロは一人一人の顔を見ながら教会について語っているのです。そこが大事です。

  それから、「キリストの名を呼び求めているすべての人と共に…」と書いています。彼は自分たちだけが世界の中心であるとか、真のキリスト者は自分たちだけだとかいう視野の狭い考えを持っていません。そういう考えを排して、過信や独善に陥らない教会観を彼はこの挨拶の中で書いているのです。

  神の恵みの下で私たちは皆、相対化されています。自分は絶対だと、この考えに従わなければダメだとは言わない。相当デタラメな事がない限りそう言わない。そういう姿勢がここにあります。


         (つづく)

                                            2016年10月9日




                                            板橋大山教会 上垣 勝




  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・