私の武器


                    この頃は何かと物騒です……リヨンの街角で
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                                                 鳥のように逃れよ (下)
                                                 詩編11篇1-7節
                                                 Ⅱコリント4章7―10節


                              (3)
  先程の第Ⅱコリント4章に、「このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」とありました。

  ダビデもある意味で、壊れやすい素焼きの土の器である自分に、主なる神の莫大な宝を納めていると考えていたと言えます。彼は、詩編32篇で、「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」と語っています。また51篇で、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と求め、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と告白していますが、彼が打ち砕かれ、悔いた心という壊れそうな土の器に、主なる神の罪の赦しという莫大な輝く宝を与えられているからです。

  ダビデはイエス様の1千年前の人です。イエスパウロも知りません。だが彼もある意味でパウロのように、「私たちの戦いの武器は闇のものではなく、神に由来するものである。それは要塞をも破壊するに足る」ものであると考えていたと言ってよいでしょう。

  これは大昔の事だけではありません。今日においても、私たちの武器は神に由来し、要塞をも破壊するほどのものです。それを土の器に頂いているのです。パウロが語る戦いの武器とは、キリストです。キリストが私の戦いの武器である。キリストは他ならぬ私の為におられると言うことが、戦いの武器なのです。そのことにアーメンと唱える時、私たちは新しい力を与えられ、新しく創造されるのです。

  私たちは独りで居ても、キリストと神につながり、神のご支配全体その宇宙につながって、その一部であることを知っていれば、力が湧いて来るでしょう。孤独とは、自分が何ともつながりがないことです(J.バニエ)。全く切り離されていることです。そういう中では、犬や猫とのつながりがあるということだけでも心強いでしょう。犬や猫を飼う人の気持ちが分かります。しかし耳の痛い事を言えば、犬や猫と幾らつながっても本質的な問題は解決されません。むしろ、そういうものにしかつながりがないと言うのは、寂しさを増加させます。ある意味でそれは、鳥のように現実を避け現実から逃げていることになりかねません。

  だが目を転じて、神のご支配全体につながり、神とキリストにつながって、要塞をも破壊するほどの力を授けて下さる方につながって頂きたいと思います。

  私たちは壊れやすい土の器ですが、自分に負けてはなりません。イエスがおられるのです。最初に焦る者は到達が遅くなります。鳥のように逃げず、腰を入れて人生に取り組みましょう。腰を入れて取り組めば、子どもでもそれなりの者に成長します。

  それは激動の時代に、精力的に問題と取り組んで生きる事だけを意味しません。フランシス・ジャムという詩人がいました。生まれ育ったフランスのピレネーの片田舎に一生住んで、パリにも殆ど出たことのない信仰の詩人です。「わたしはよろけながら歩いている。驢馬(らば)のやうなもの…」と歌っています。こんな詩があります。

  「序詞
   神様、
   あなたは私を人界に呼び出しなされた。    *人界とは人間の世界の意
   それで私は参りました。
   私は苦しみ、私は愛します。
   あなたが下さった声で私は語りました。
   あなたが私の父と母にお教えになり
   両親が私に伝えた文字で私は書きました。
   私は私の道を行きます。
   子供達に冷笑されながら、頭を下げて通る重荷を背負った騾馬(らば)のように。
   あなたの御都合のよい時
   私はあなたのみ心のままの処へ参ります。

   寺の鐘が鳴りまする。」(堀口大学訳)

  教会の鐘が鳴り渡り、澄んだ風景の中、御心のままに一筋に安らかに生きる信仰の詩人です。木訥(ぼくとつ)に生きた詩人です。だが、有名なリルケは、「ピレネーの麓(ふもと)にいる詩人のようになりたい」と憧れたと言います。またポール・クローデルは、「永遠に、傷ついた者が自由に飲むことのできる清らかな泉が湧き出ている」と讃えたのです。

  イエスと神につながる者には、孤独を越えた何ものかが生まれます。それは天が与えて下さる賜物です。


        (完)

                                            2016年10月2日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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