誘惑の声


     昼時にぷらっと入ったレストランでしたが、リヨンの味は思い出すだけでもあごが落ちそうです
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                                                 鳥のように逃れよ (上)
                                                 詩編11篇1-7節
                                                 Ⅱコリント4章7―10節


                              (序)
  「鳥のように逃れよ」とありますが、今日は1節にある誘惑の言葉を題にしました。そんな所で悩まずに、鳥のように逃れよ。そんな誘惑です。

  先週、道路脇のこの説教題を見ながら、手をつなぎ合ってじゃれ合って歩いている40代のカップルがいました。「鳥のように逃れよ」という言葉を何度も見ているんです。振り返ったりして。夫婦でないような感じで、咄嗟に、「鳥のように逃れよ」と駆け落ちを思って見ているのでないかと思ったんです。そんな事を思うなんて、私の心が汚れでいたかも知れませんが、大山教会は駆け落ちを勧めているんではないんです。

                              (1)
  「ダビデの詩」とありました。彼が嘗(な)めた試練の1つでしょう。恐らく国家的な危機が起こる中、誰かが好意からか、それともダビデの足をすくう目的でか、「鳥のように逃れよ」とアドバイスしたのです。鳥は危険を感じるとサッと逃げます。卵を抱いて巣籠(すご)もりしていても、身に危険を覚えると親鳥は黙ってサッと身を隠します。

  この信仰者は先ず1節で、「主を、わたしは避けどころとしている」と信仰を表明します。これが彼の信仰です。私は主を避け所とする。私は主に確かな避け所を見出していると先ず語るのです。

  日頃そのように信仰を表明して来たダビデに、今、「この国では世が乱れ、世が転覆してしまっている。どうして清き者、正しき者が指導者になって世を治めて行けようか。君は濁ったこの現実社会から遠ざかり、鳥のように山に逃げて、そこで清き一生を過ごすがいい。現実から逃避してそこで清く正しく過ごすがいい」と忠告する者があったのでしょう。忠告かそれとも策略か真相は分からないが、そう進言する者があったのです。その進言にダビデが答えたのです。

  この詩は明解です。最初は難解に見えますが、よく考えて読むと易しく明解です。そして素晴らしい内容があります。今申しましたように、最初にこの信仰者の信仰の表明があり、次に彼に対する誘惑の言葉が記され、最後にこの信仰者が答えると言う構成です。

  激動する時代であり、清い者や正しい者はそこに安住できないような有様になっていたのでしょう。その時、彼にアドバイスする者があった訳です。「世の秩序が覆(くつがえ)っているのに、主に従う人に何ができようか」「主に逆らう者が弓を張り、弦(つる)に矢をつがえ、闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。」いずれも事実であり、事実に基づいて進言して来たのです。

  1節に、どうして私に言うのかでなく、「どうしてわたしの魂に言うのか」とあります。私の魂、私の内面の一番深い所に言葉を投げて来た。急所を突き、動揺させようとする誘惑の声です。それが誘惑なのは、私のためを思って語られる何がしかの友情らしきものがあるからです。

  だがこれが誘惑なのは、信仰に立って秩序が覆っている世の現実へ切り込み、そこで主を証しようとする私にとっては逃げであり、現実逃避であり、戦わずしての敗北であるからです。そういう私に向かって、「山へ逃れよ。安全な所に行って身を隠せ」というのは、私への真の友情でもないし、少しも私を理解していないことです。

  しかし誘惑する者の側に立って言いますと、今の社会で、純粋に神に仕え、神を避け所として生きるなんて夢物語である。世が覆っているのだ。主を嘲る者や逆らう者が、心の真直ぐな人、真実一路で進もうとする者らを物蔭から射ようとしているのだ。そうだとすれば、今は暫らくこの世に迎合(げいごう)し、世の多数に倣って生きざるを得ない時代でないか。今は闇の時代、それに合わせなければならない時代だ。主に従う人に、一体何が出来ると言うのかと主張しているのです。

  現代社会に引き寄せて言えば、問題が錯綜する巨大な社会において、教会なんて何もなし得ないではないか。実に無力だ。君たちは退けという声でもあると思います。教会の現実離れした純粋な考えなどは世に通用しない。弱肉強食の社会で、競争に破れず、のし上がって行くには、多少の不正や必要悪は仕方がない。蛇のように聡(さと)く、策を弄して老獪(ろうかい)にずる賢く振舞うべきだという声でもあるでしょう。蛇のように聡く振舞う事は一概に悪い事ではないが、これらも、「鳥のように逃れよ」という誘惑の声の1つだと言えます。

  私たちは新聞やテレビや週刊誌で、難民問題の問題点ばかりが報道され、その難しさばかりに目が行きます。勿論決してなま易しい事ではありません。しかし難民が現実に入って来ている国々で、教会が中心になって色々奮闘して難民受け入れに励んでいます。そういう報道は日本では殆どされません。無視されています。

  しかしドイツでもスイスでもまたイギリスでも、現実に来た彼ら難民を神から遣わされた隣人として出来るだけ温かく受け入れています。その結果、信仰を持つ人たちが急増している教会が、あちこちで見られるのです。むろん生活のために、偽って洗礼を受ける者があれば困りますから、厳正に洗礼の基準を敷き、途中で脱落者も出るような求道者会を何回も行っています。それで、ある教会では50人とか100人とか集団受洗まで起こって、ベルリン郊外のある教会ではこの2年間で、150人から700人に膨れ上がっています。ほぼイスラムからの改宗です。大山教会は頭に滴礼する洗礼ですが、教会によっては全身水に浸かる洗礼をしましてどちらもいいのですが、向こうの新聞は、ベルリン以外の地域でも市のスイミングプールなどを借りて洗礼式が行われたと報じています。ドイツやスイスやイギリスのプロテスタント教会でも、またオーストリアカトリック教会でもそういうことが起こっているようです。

  受洗者の中には、本人の言葉ですが、これまで母国ではイエスがこんな人だとは聞いたことがなかった。自分たちの宗教は争いや戦いの中で生まれた宗教であったが、敵をも愛し赦す、人にここまで仕える愛の宗教があるとは知らなかったと言って洗礼を受ける人もあるようです。

  受洗者数が大事だと言うのでなく、キリスト者たちが率先して難民のために色々とお世話し、支援し、実社会に馴染めるように奮闘し、それが受洗者数という形でも実を結んでいると言うことです。新聞や評論家はえてして「何とか問題」に関わります。しかしキリスト者は「問題を抱えている隣人」に関わるのです。イエス様がそうです。これはとても大事な事です。

        (つづく)

                                            2016年10月2日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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