敢えて喜ぶ


                    リヨンの町は退屈することがありません。       右端クリックで拡大
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                                               希望の泉が湧いている (下)
                                               ルカ24章1-12節



                              (3)
  「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。」一体ここにはどんなメッセージがあるのでしょうか。

  マタイ、マルコは揃って、「ここにはイエスはおられない。イエスは先にガリラヤに行かれた。あなた方もそこに行きなさい。そこでお会いできるであろう」と言ったとあり、またヨハネ福音書は実際ガリラヤで弟子たちとお会いされた復活のイエスについて告げています。ルカにはガリラヤへの言及はないのですが、これらの福音書が告げているのは、もし救いを求め、希望を求めてイエスに従って行こうとするなら、墓の前で立ち止まるな。死者の中に、生きている方を探していてはならない。あなた方はガリラヤに向かわなければならないという事でしょう。

  ガリラヤです。当時そこは国際的な場所でした。ユダヤ人始めローマ人そして東洋人など、色々の国と人種と人々が行きかい出会う場所でした。また、そこはほぼ弟子たち全員の出身地であり、彼らの家庭と暮らしがある場所です。ガリラヤは人類と国々の互いに出会う十字路であります。卑近な日常生活とそれと地続きで続いている世界と人類が錯綜し交差する場所において、言葉を変えて言えば人類が喜びと悲しみを抱いて生きている場所でイエスは君たちを待っておられるという事です。

  即ち、あなた方が復活のキリストに応答して行くなら、あなた方の普段の生活の場で復活のキリストに出会い、驚くほど感謝がほとばしり出るであろう。あなた方の心にキリストが復活し、あなた方を通してキリストが活動して下さることになるという事です。

  ある人が、イエスを信じることを許された者は、「人類とこの世との初穂であり、代表者である」と語っています。また、「宇宙全体の先頭に立つ者」だとも語ります。ここにおられる皆さんはキリスト教会の代表なのです。一人一人が大山教会を担う代表です。宇宙全体の先頭に立つ者だと言うのですからたまげてしまいます。

  復活されたキリストは、私たちを勝利の喜びへと導く方です。そこには何ものにも打ち勝たれない、主による喜びがあります。私たちが負い難い自分の十字架を負って奮闘して行くなら、そこは宇宙全体の先頭にいると言うのです。しかもこのお方にある時、詩編で歌われているように「闇はもはや闇でなく、夜も昼のように光を放つ」のです。

  自分や周りの人に対する悲観的な見方。それらは私たちの魂に悩みや葛藤を引き起こします。悩みや葛藤があるから悲観が生まれるのかも知れません。しかしその悲観と葛藤の中においても、神が果たそうとしておられること、最後的に勝利されることを敢(あ)えて喜ぶのです。この敢えてが大事です。敢えてです。敢えてとは、キリストへと自分を押しやる言葉です。この敢えてをやめて、誘惑や自分の欲に身を任せると、水が低きに流れるようにドンドンそちらに行きます。しかし、敢えてキリストが最後に勝利して下さるのを喜んで行く。敢えて行なって行くのです。すると悲観的な見方は溶けて行きます。だが反対に今申しましたように、キリストの勝利を忘れ、甦りを否定し、自分の内に閉じ籠るなら魂は曇ってバランスを失うことになるでしょう。

  そこで、最初にお話した所に帰って来ました。恐れず繰り返しますと、神への信仰は子どもが母の膝にいるのだということに気付くようなごく単純な発見です。この単純なことが信仰の深い奥義でもあります。イエスが幼子を抱きあげ、神の国はこのような者の国だとおっしゃった意味はそこにあります。

  この単純な事に気付くと、母の膝で子どもが安心するように私たちの心は平和で満たされます。私たちに平和が訪れ、私も神に愛されている事を知れば知るほど喜びが湧いて来ます。この神による平和と喜びが、私たちの人生行路を前進させる力になり、足取りを軽くさせるのです。「希望の泉が湧いている」からです。

  神を仰ぐ人たちに希望の泉が湧いています。泉が湧くのは神のみ業です。私たちはただ神を信じるだけです。ただそれだけで魂は安定し、心は平安になり、緊張がほぐれ、人との関係が改善され、また強くなります。母の胸にいる幼子のように満たされます。足元に希望の泉が湧いているのを知るだけで人生は変わります。

  この夏リオのオリンピックの陸上100m競走で、ジャマイカのウセイン・ボールト選手が3個目の金メダルを取るという偉業を達成しました。外国の新聞によれば、彼は信仰的なキリスト者で、聖書を信じ、神をほめたたえ、イエスを礼拝するクリスチャンだとありました。オリンピックの5週間ほど前までは、30才になっていた彼は脚の腱にトラブルがあって出場が危ぶまれていたそうですが、100mに3つ目の金メダルを取り、200mにも2つ目の金を取るという世界記録を達成したのです。

  私が驚いたのは、30才の彼は既に財団を作り教育と文化で若者たちを支援していることです。陸上の世界の覇者であるだけでなく、教育や文化にも私財を注ぐ若者であると言うことです。彼はそこでも十字架を担いで先頭を走っています。子どもらの人格を高め、彼らを幸福にするために資金が使われています。30才ですが、彼は「受けるよりも与える方が幸いである」という聖書の言葉の意義に気付き、従っているのでしょう。

  むろん全ての人が彼のような大きな事業をする必要はありません。しかし、神に与えられる平和と喜びに生き、小さなことにおいても、「受けるよりも与える方が幸いである」という言葉を少しでも行っていく。受けるよりも、与える喜びに生きる者でありたいと思います。それは私たちが、人々が行き交う今日のガリラヤで復活のイエスに出会うことであり、十字架を負って復活のイエスに従うことです

  外国に行くと屋根に天窓がある家が多くありますが、私たちは誰にも天窓が開いています。光はそこから入って来ます。祈りは、光が入って来る天窓です。ただ家に天窓があっても、天に向かう祈りがなければ光は入りません。祈りによって天窓を開き、キリストの光に照らされ、明るく希望を授けられて生きて行きましょう。

      (完)

                                            2016年9月25日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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