母の膝にいた自分


                  わずか数千円でこんな素晴らしい花壇が出来ます。    右端クリックで拡大
                               ・


                                                 希望の泉が湧いている (上)
                                                 ルカ24章1-12節



                              (序)
  詩編を見ると、神は私たちを愛し、神と交わり神の栄光を現わすために私たちを創造されたと語ります。だが、このこともそんな事はないと疑い出せば切りがありません。色々と理屈をつけて言い逃れることが出来ます。

  しかし神への「信仰は、子どもが母親の膝の上にいるのだということに気付くような、単純な発見です。この単純なことが同時に信仰の深い奥義」(K.バルト)でもあります。

  それを発見すると、母親の膝で子どもが安心するように私たちの心は平和で満たされます。私たちに安心が訪れ、私も神に愛されているのだという事を知れば知るほど喜びが湧いて来ます。この神による平和と喜びが私たちの人生の旅路を前進させる力になり、足取りを軽くさせるのです。そこに、今日の題にしました「希望の泉が湧いている」からです。希望の泉が湧いているのを知るだけで人生の風景は一変します。

                              (1)
  さて婦人たちは、「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」とありました。週の初めの日、即ち日曜日の明け方早くです。

  ギリシャ語で読むと、ここは、「夜明けの深みに」墓に行ったと面白い表現をしています。夜明けには深みがあって、その深みの時に墓に行ったと言うのでしょうか。こういう新鮮な表現は外国語や原語でものを読む楽しみの一つです。夜明け、明け方直前が闇が一番深まると言われますが、闇が最も極まったその瞬間が夜明けの時だという事がギリシャ語で捉えられている訳です。

  婦人たちはまだ暗い中を、誰も一言もしゃべらず、暗く絶望して、うつむきながら墓へと急いだでしょう。胸にありし日のイエスの懐かしいお姿が浮かび、同時に十字架に吊るされ、歯を食いしばって激しい苦痛に耐えるイエスの姿と、祭司長や長老の憎悪の目、彼らに扇動された群衆の罵倒する姿が脳裏から離れなかったでしょう。悲しみと共に怒りが、戸惑いと共に悔いが彼らを圧倒していたでしょう。

  イエスは、神から遣わされたメシアを信じるように、忍耐強く励まし続けられました。やがてメシアは平和の神の国をもたらし、全ての人に光を注ぐために来られると約束されました。そしてイエスが実際になされた数々の神の国の徴は、旧約の古(いにしえ)の預言の成就でした。それにも拘らずユダヤ人らはイエスを拒み、排除したのです。

  そのようにして社会から排除されたイエスを偲び、惜しみ、遺体に香油を塗ってお別れしたいと願って墓に向ったのです。

  ところが目を上げて見ると、「石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」とあります。墓の入り口をふさぐ何トンとある巨大な扉の石が脇に転がされて、墓に遺体が見当たらなかったのです。

      (つづく)

                                            2016年9月25日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・