知らない内に愛されています


            「盗まず、お声をかけて下されば喜んで差し上げましたのに。…」
  遠方の方に2房お送りするつもりだった最後の4房がすっかり消えてなくなりました。昨日2房、今朝2房。
                                              右端クリックで拡大
                               ・



                                                  ただ一人の勇断 (下)
                                                  ルカ23章50―56節
 

                              (3)
  「その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた」とありました。その日は金曜日でした。翌日は土曜日、ユダヤ教安息日です。頭が少しおかしくなりますが、向こうでは土曜は金曜の夕方6時から始まりますから、3時頃に息を引き取られたイエスを日没の6時までに急いで葬ったのです。

  55節は、「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」とありました。

  ガリラヤから来た婦人らは、心引きちぎられんばかりの悲しみを持ってヨセフの後からぞろぞろ付いて行き、場所を確かめると家に帰り、香料と香油を準備し、土曜の安息日は掟に従って休んだのです。香料とあるのは、今、女性たちに人気のいわゆる芳しい香りのするアロマです。アロマはギリシャ語です。香油は遺体に塗って腐臭を消すと共に、遺体を長持ちさせるためです。

  それにしても十字架からイエスを抱き下ろした時はまだ体温は残って温かく、硬直もしておらず、今にも息を吹き返して懐かしいお声がするのではと思えたことでしょう。だが既に事切れ、それはイエスの遺体そのもの、亡骸(なきがら)、物体でした。イエスのこの世でのみ業は完結していました。

  第1ペトロ3章に、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちの所へ行って宣教された」とあります。前の口語訳では、「彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」となっていました。ペトロ3章で言われている事は、私たちが先程お読みした信仰告白使徒信条に、「死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり」とあったことを指すものです。

  地上では、イエスが遺体となって泣き悲しまれていた時、霊においてキリストは罪人らの掃き溜めのような地下の地獄、陰府まで降って、彼らも十字架の血潮で救うために福音を宣教しておられたと語るのです。ガリラヤから来た婦人らが、墓を確認して帰宅し、香料と香油を準備して土曜の安息日を掟に従って休んでいる間に、イエスは陰府に降って宣教しておられたということです。

  ある教会の冊子を読んでいましたら、今の都内の公立小学校の素晴らしい女性教師のことが出ていました。この方は生徒たちを愛してやまず、時間を見つけては子ども達と遊んで彼らの心を捕えておられるようです。しかも教師たちの私的な研究会では、「私はクリスチャンで、日曜日は教会に行っています」と明るくハキハキ発言する大変明朗な方のようです。

  ところが大腸ガンになってしまい、ある時、家にいた時に家族に、「お母さんはお腹の中で悪いことばかり考えるから、ガンが出来た」とか何とか、子ども達の前で落ち込んだことを言ったそうです。そしたら娘さんが、「お母さん、イエス様は汚い場所に降りて行ったって言うよ」と言って慰めてくれたそうです。

  イエスは死んで遺体となって晒されましたが、死んだ後も罪人らの掃き溜めのような汚れた地獄にまで降りて行って宣教されたのです。娘さんの言葉に彼女はハッとしたんですね。イエスは私のような者と共にいて下さる。イエスは今も私をお見捨てにならない。子ども達に希望を届ける人になって、再出発しようという事でしょう。

  今もイースターの前日、受難週の土曜日は陰府に降られたキリストを覚える日です。たった1日です。だがたっぷり1日、陰府におられたという事です。「主に在っては、1日は千年の如く、千年は1日の如し」です。地上と違い、そこでは1日は万年、億年の如しかも知れません。イエスが罪人と共にいますとはそこまでの愛です。

  版画家のデューラーが描いた小品を見たことがあります。陰府に降ったイエスを魔物がヤリで今にも突き刺そうとしています。刺されつつイエスはなお一人の人を助けようとしています。刺されても助けようとしておられるのです。

  申し上げたいのは、ヨセフにも婦人たちにも私たちにも、人の目に見えないところでイエスは働いておられるという事です。私たちは神の愛を実感したい、イエスの愛をもっと知りたいと思います。しかしイエスの愛は、失われた1匹の羊を探し求める羊飼いに似ています。道に迷って迷い出た羊は心もとなく、独り孤立していて、自分が真剣に探されている事実を知りません。しかし、本人が知らない内にも愛されているのが迷い出た羊であり、見えないところでもう既に愛されている(郡美矢)のが彼であり彼女です。

  私たちもそうです。見えないところで、知らない内に愛されて、今日の自分があることにまで思いを致したいと思います。イエスは、「あなた方が見えると言い張る所に罪がある。見えなければ罪はなかったであろう」と言われました。見えることよりも、見えないことの中にもっと豊富な確かさが詰まっているのです。

       (完)

                                            2016年9月18日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・