足元に宝が隠されている


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                                                  足元に宝が隠されている (上)
                                                  マタイ13章44節


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  今日は天の国、神のご支配についての興味深い譬えです。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」天国は場所でなく関係として捉えられています。自分の生活の中での神との、最も貴い宝との関係として語られています。

  ここは意味が深く、何度読んでも興味が尽きません。私の人生はもしかしたら、「あなたの畑には宝が隠されている」という言葉を巡って生きて来たかも知れないと思います。

  青年時代は自分探しの時代です。自分は何者だろう、自分の存在理由は何かと多くの若者は問います。そしてそれが見つからないと実に深く悩みますし、見つかれば喜び勇んでそれに進みます。それが正しいかどうかはともかくも、そうします。

  先日の新聞では、「本気で自殺したいと考えたことがある」人が25%に達すると報道されていました。4人に1人です。20代の女性に限れば何と37%です。テレビに出る若い元気な若者とは全く違う実態で、これには驚かされました。テレビはあまり現実を映し出していないですね。作為的に作られているのでないかと思います。また実際の自殺者は全ての年代で男性が女性の約2倍です。これも驚かされる事実です。

  そう言う私も、イエスと出会う20才前後は実に絶望の中にいて、希望の光が全くありませんでした。外面はスキーに出掛け、バレーボールに興じる元気な青年でしたが、思い出すと、「自分には何の価値もない。価値のないことしかできない。生きていれば迷惑がかかる」という思いが強かったと思います。生きることにも、人間であることにも罪悪感を持っていました。今の若者はどんな気持ちで「本気で自殺を考えている」のかよく分かりませんが、今も深い絶望感を抱く青年が女性では3分の1以上いるのだと思います。

  しかし私は幸運にもイエスと出会って、今日の言葉で言えば、「君の畑には宝が隠されている」という言葉に支えられて、どこに宝があるのか、どんな宝だろう、どうすれば見つかるのだろうと、洗礼を受けるまでは仏教にも行きました。文学にも音楽にも行き、詩を作り、そんな仲間と交流し、雑誌に投稿し、山に登り、スポーツをし、京都や奈良や鎌倉のお寺を訪ね、高僧の話に耳傾けもしました。

  前に申しました「明珠(みょうじゅ)在掌」という言葉も知りました。明るい真珠の珠、素晴らしい宝物は他ではなく既にあなたの掌(てのひら)にあるのだ。自分自身の掌に既に存在していると言う意味を考えました。またある人から、「足元をもう一度深く掘れ」という言葉も教わりました。そしてそれら全てを悉(ことごと)く含んで、「君の畑には宝が隠されている」というイエスの言葉に導かれたと言えるでしょう。

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今回この聖書を選びましたのは、Aさんが突然の離婚を言い渡されて裁判を起こして勝訴された訳で、あの時は大喜びしましたが、間もなくこんな難しい手術を受けることになり、今後どう生計を立てて行かれればいいのか。素晴らしいプロのピアニストとして今後も活動が出来るのか。先日病院をお訪ねする際に、言葉を下さいと言われまして、ここをカードに書いて差し上げたのがきっかけです。

  「畑」とあるのは、原語でアグロスと言います。畑の他、野原や村里を指します。まあそんな所に宝などありそうもない場所です。また、「見つけた人は、そのまま隠しておき」とありますが、「見つける」という言葉は、何もしないで偶然見つけるのでなく、努力して探した末にやっと見つける事、発見することです。最近よく使われる言葉で言えばブレーク・スルーでしょう。遂に突き破って手に入れたのです。

  パレスチナ地方の畑は行けば分かりますが、実に石ころが多いです。足元に宝が隠されているとしても、目に入るのは石ころだらけで、幾ら掘っても石ばかりで嫌になることを、この譬えは前提にしているでしょう。

  現実に畑に宝が隠されていることが分かっていれば苦労があっても諦めませんよ。だがないかも知れない場所で苦労して掘っても無駄骨ですから、普通の人なら途中でやめます。

  また見つけるには、それが宝だと見抜く目がないと宝だと思わないかも知れません。彼は盛んに探し求めていたから発見したのです。それで、見つけると「喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」とイエスはおっしゃったのです。見つけた時、大きな喜びが起こった。当然でしょう。それで喜びの余り、夢中で家に飛んで帰り、持ち物をすっかり売ってその畑を買うと言われたのです。

  これは信仰の喜びを指しています。人生で、地上の宝にまさる真に掛け替えないものを得た。そうなれば、「持ち物をすっかり売り払い、それを買う」ということも起こります。その宝は、持ち物を売り払っても十分余りあるものだと言う意味です。信仰の喜びの余り、これまでの生き方をすっかり後にしてという意味も含むでしょう。過去を売り払って新しい世界を手にして行くと言う事です。

  実際にそこまで行くかどうかはともかくも、イエスとの出会いの中で何らかの新しい生き方へと踏み出したのが私たちではないでしょうか。

  ただ、宝を見つけて手に入れると言う事は、信仰の世界では、答えを見つけてそれで完結と言う事ではありません。宝を見つけた故に、自分が答えとなるように祈って行くことです。ある人が修道院のことに触れて、「答えを探すのではない。自分が答えになるように祈るのだ」と言っていますが、本当にそう思います。そうでないと、教会や社会を批判的に見て、なんて愛の少ない人たちだと批判するだけです。そんな人間になっちゃあならない。自分自身が答えとなって愛していく。それが宝を発見することです。でないと、愚痴の多いクリスチャンになります。そんなクリスチャンが増えても仕方ないでしょう。ヘブライ書では、あなたは、血を流す程に自分の罪と戦いなさいと勧めていますが、そういう確かな信仰を持ちたいと思います。

      (つづく)

                                            2016年9月11日

                                            板橋大山教会 上垣 勝




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