死と復活の倫理


                      リヨン旧市街のサンジャン通り(2)       右端クリックで拡大
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                                                 古い自分を後にして (下)
                                                 コロサイ3章5-12節
 

                              (3)
  それに対し、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」とあります。

  「脱ぎ捨て」という言葉は、洗礼を示唆しています。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」という言葉は先週の「神の似姿を生きる」話しとも関係します。古代の洗礼は川や池や大きな水槽に入って受けました。洗礼を受ける前に、これまで着て来た古い服を「脱ぎ捨て」たのです。「行いと共に」です。「行いと共に」は短い言葉ですが重要です。そして白い服に着替えて洗礼槽に入って洗礼を受けました。白い服は復活のキリストの象徴です。洗礼は復活のキリストを着ることを意味します。ですから、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」と言われています。

  このような洗礼において、キリストの復活という強力で堅牢な力に与り、私たちキリスト者の希望の根拠が生まれると語るのです。

  パウロはここで、死んで甦ることを力説しています。日常生活でどう復活を生きるか。今日私たちが職業を持ち、スポーツや音楽や美術などをたしなみ、友と語らい、旅行などもしながら、キリストと共に死んで甦らされた者としてどう生きるのか。古い欲望が一杯溢れる世界で、キリストの復活の証人としてどう生きるかという事です。

  10節以下はそれについて、死んで甦る時、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる。 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのだから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」

  死んで甦る時、復活を生きる者として民族や国境を越え、「未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者」など人種や階級差や厚い隔ての壁を越えて行くというのです。第2は、キリストが全てを支配され、全ての者の中におられる。だから私が接する相手の中に住むキリストに呼び掛け、キリストがその人の中で育って下さるように接するという事でしょう。そして復活を生きる者として最後に、あなた方は神に選ばれ、聖なる者とされ、神に愛されているのだから、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と語られます。

  憐れみの心を抱き、親切で、謙遜でありなさい。柔和で寛容であり忍耐強くありなさい。パウロが言わんとする一番大事な事は、あなた方は一度死にキリストと復活したのだから、社会において他者とハーモニーを持って生きることが可能だという事でしょう。キリストと共に死んで甦らされた新しい生活は、キリストに根を下ろして行くなら、人間関係の質が現実に変えられるという事です。一度はノックダウンされても、ノックアウトされず、再び立ち上がって掛って行く力を授けられるのです。

  憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容は、それぞれ愛の違う姿です。あなた方は神から愛されている。その愛が憐れみの心を生み、慈愛と親切を生み出し、謙遜と寛容を生じ、我慢強くあらせるのです。忍耐は愛による忍耐です。

  ですからコリント前書13章は、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。…自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。…すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。…」と語ります。コロサイ書3章14節には、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」とあります。愛は全てを完成させる絆であり、全てを完全に結ぶ帯だからです。

  ただ、愛は自動的に身に着きません。ですから、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて…」と語られたのです。ヘブライ人への手紙でも、「いっさいの重荷と、絡みつく罪とをかなぐり捨てて、私たちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」と勧めています。古い自己に属するものが絡みついていて、気を抜けば自己本位になり、人を傷つけるからです。

  こういう自分との戦いがあり気を抜けませんが、復活の恵みに与るなら、弱さも限界も力も、恐れる必要は要りません。キリストにより私たちの日々の怖れはキリストの命に飲み込まれ、キリストの命が私たちに溢れるようになるからです。

  復活のキリストの内でどんな人も生かされ、そこでは全ての人が生きる余地があります。やがて人類が作り出した色々な分離や隔てや区別は古臭くなり、やがて神が造られた世界の中で誰もが居場所を持つようになるでしょう。そして神がヨシとされる驚くべき多様性を持つ唯1つの世界が現われるでしょう。

  それは今日の聖書が語る、「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる」という世界です。預言者イザヤはそのことを、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」と語っています。やがて終末的な和解が到来するのです。

            (完)

                                            2016年9月4日


                                            板橋大山教会 上垣 勝




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