死を背後に持つ


                      リヨン旧市街のサンジャン通り(1)       右端クリックで拡大
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                                                 古い自分を後にして (上)
                                                 コロサイ3章5-12節
 

                              (1)
  クリスチャンとはどういう人でしょう。洗礼を受けて教会に通う人、聖書に導かれている人でしょうか。少し前のコロサイ書3章1節の言葉で言えば、「あなたがたは、キリストと共に復活させられた」人たちです。キリスト者はキリストの復活に与った存在である。ここにクリスチャンの根拠と強さがあります。もしこの土台が取り去られ、自分自身で立たねばならないとすれば、クリスチャンは実に弱い人たちです。

  3節も、「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」と語ります。キリスト者の存在根拠はこの非常に深い岩盤に根をおろし、ここから全ての力を汲み出しています。牧師も役員の方々も、2千年にわたる何千億のキリスト者も皆そうです。

  「あなたがたの命は…」とありました。私たちの本質、その宝は、「神の内に隠されている。」これを知った喜びがキリスト者の喜びです。これを知れば知るほど私たちの心は澄み、シンプルになるでそうす。コリント後書は、「打ち倒されても滅ぼされない」と語ります。ノックダウンされても、ノックアウトされないという意味です。再び立ち上がって掛って行く力を持つのです。ある英訳聖書は、「幾度重傷を負っても、潰されてしまわない」と訳しています。

  これが、2章6節、7節にあるように、「キリストに結ばれて歩む」ということであり、「キリストに根を降ろして造り上げられる」という事です。信仰者の一歩はここから始まります。

  また3章1節は、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」と語っています。「上にあるものを求めよ」です。「求める」と言う主体的な歩みがないと、み言葉を聞いても素通りします。素通りしていれば実を結びません。「果報は寝て待て」と言いますが、信仰は「棚から牡丹餅」ではありません。神に委ねるという事と怠惰とは根本的に違います。「棚から牡丹餅」が落ちて来るのを寝て待っていては、たとえ牡丹餅が偶然落ちて来ても――むろんその時はびっくりしますが――、人の生き方を変えたりしないでしょう。信仰の驚きは、求めていた時に与えられる驚きです。求めていてこそ本当の驚きが生まれ、感謝と喜びが生まれます。

  この世には、肉の欲望を充足させたいと願う人で溢れています。欲に駆られ、感情に駆られ、自己中心になり、欲丸出しで生きている人たちも多くあります。

  しかしコロサイ書は、キリスト者とは、死者の中から甦らされた人間だと語るのです。キリスト者は、死を背後に持って生きる者だと述べます。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」というのは、まさにそういう事です。そしてキリストと共に葬られる時に、キリストの復活の命が溢れるほど流れ込んで来て、命に生きる者になるのです。キリストと共に死んだ者になる時に、キリストと生きる者となるのです。一度死んだ者として生きる時に、甦らされた者として喜びを持って生き始めるのです。

            (つづく)

                                            2016年9月4日


                                            板橋大山教会 上垣 勝




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