国境と民族の壁を越えて行く


           リヨン旧市街の迷路の旧跡はレジスタントたちの隠れ家。今はパブ街です。    拡大 ⇈
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                                                  神の似姿を生きる (下)
                                                  ルカ6章27―36節


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  そうは言うものの、それはどう可能なのでしょう。人は神の似姿を生きることが出来るのでしょうか。そんな力や気力やエネルギーをどこから得ればいいのかと考えます。

  先ず何よりもその力は私たちの性格や意志力から来るのではありません。

  神はいささかも報いを望まず人に与えられます。命の息を吹き入れられた方は命の源である方だからです。ふんだんに命をお持ちである方だからです。だから、いささかも惜しまずお与え下さったのです。しかし私たちは命の源ではありません。私たちが与えるには、受けなければなりません。誰もがそうです。与え続けるには、受け続けなければなりません。

  ここが新しいのです。福音書でイエスが語られることが全く新しいのは、この点です。イエスは人として来られ、神の子であるにも拘わらず、私たちに神の聖霊を、イエスの中に生きる愛のエネルギーをお送り下さったのです。「私を見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14章)と言われました。また、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」(ヨハネ12章)、そして「彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される』」(ヨハネ20章)と語られました。イエスの息、霊、聖霊を授けられる。

  聖霊の力によって、イエスは病人を癒し、罪人を赦すことがお出来になり、十字架に付いて私たちに聖霊を送り、愛の命を与えられました。イエスに苦痛を与え、イエスを殺す人々のために執り成し、赦されましたが、復活後、信じる者たちにその聖霊をお授けになったのです。

  そしてイエスに従う私たちにも、「聖霊を受けよ」と語って、神の命であり、キリストの命である聖霊を私たちにも吹き込み、彼を信じる信仰者の群れに迎え入れられたのです。

  初代のキリスト教徒たちに出会った人たちの心を強く打ったのは、種々様々な背景を持つ人たちが兄弟姉妹として、物質的にも精神的にも、心を一つにして分かち合っている姿でした。自由人も奴隷も区別なく、男も女もなく、この世の隔ての壁を越えて生きているキリストの共同体の姿でした。「キリストは敵意という隔ての壁を取り壊」され、「平和を実現」された。「敵意を滅ぼされた」と彼らは語りました。彼らはあらゆる異質な人たちを迎え入れ、他者に心を開いて行ったのです。彼らは当時の世界において、世界的な連帯を生きようとしていたのです。彼らは神の似姿を生きようとしたのです。その道はこの世の道やヤクザの道でなかったのは明らかです。彼らが目指したのは、イエス・キリストが切り拓かれた新しい道、神の国へと通じる人類の未来に向かって開かれた道でした。

  彼らは経済的なメリットのためではありません。宗教的メリットや自分の勢力拡大のためでもありません。また興味本位から、好奇心に駆られて色々な人に向ったのでもありません。最近のテレビは、どこか外国の街歩きで興味ある風情を紹介するのが流行っています。その国が抱える問題には目を向けないままの紹介です。そういう好奇心や興味本位で国境や民族の壁を越えたのではありません。この世的な、欲に根差した生き方を越えた新しい神の道であった故に、多くの人を惹きつけたのです。

  イエスを力づけ、初代のキリスト者たちを力づけたのと同じ聖霊は、今日もなお私たちに与えられています。私たちは聖霊によって、神の似姿を生きることが出来るようにされているのです。

  私たちが共に礼拝し、共に祈り、共に考え、共に計画し、共に証しし、共に働きながら、少しずつ私たちの考えと行動が変えられて行きます。そして不可能が可能となって行くのです。キリストの聖霊、キリストの愛の力が私たちの中に働き、私たちを変えて下さるのです。

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  最後に、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とありました。

  ゴールデン・ルール、黄金律と言われる世界万民に通用する言葉です。物の本では、孔子は、「己の欲せざるところ他に施すことなかれ」と説き、ユダヤ教は「自分が嫌なことは他の誰にもしてはならぬ」を黄金律としています。ヒンズー教も「他人からしてもらいたくないいかなることも他人にしてはいけない」と語り、仏教も「誰でも皆、自分が特別可愛い。だから、他者の、自分を可愛いと思う心を害してはいけない」と語ります。しかしイエスは、「……を、してはならない。してはならぬ」と語られず、「せよ」と積極的に行動することを語られたのです。禁止でなく、積極的な行動を促す命令、ここにイエスの教えの優れた特徴があります。

  「 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし…」。この「しかし」の次が重要です。この「しかし」の次によって輝き始めます。この「しかし」を出し惜しみしない事が大事です。

  この世は泥だらけです。挨拶しても挨拶してくれない、愛しても応えてくれない、善くしても反応がない。仲間とは夢中で話すが、外の者には心を開かず冷たい世です。私たちはそういう世の中で暮らしています。そういう世の中で泥だらけになって生きているのが私たちです。しかし泥だらけになりながら善を行ない、正義を行ない、神のみ旨を行なおうと生きることが「地の塩、世の光である」ことです。

  5月に、JOCSのワーカーとしてバングラデシュで働く岩本さんの証を聞きました。その中で、バングラデシュには汚職や不正が数多く、用心が欠かせない。しかし障碍者施設の責任者として政府関係者や警察署長などとも会う中で、汚職や不正が横行する中でも正義を貫こうとしている人たちがいることを知り励まされていると話され、みな感銘を与えられました。正義がある中で正義を生きるのは易しい。だが泥の中で生きなければならない現実があるが、その泥の中で正義を貫くのは容易でないのにそのことにチャレンジしている人たちがいて力づけられたのです。

  イエスは、私たちが泥のような世の中にいるのを知っておられます。だからこう言って励まされたのです。そしてこれらをするのは、「いと高き方の子となる」ためである。必ず多くの報いがある。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い…。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と語って、まさに泥の中でこそ、み旨を行なうように励まされたのです。

        (完)

                                            2016年8月28日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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