王道を進む


    リヨンはシルク・ロードの終点。フルヴィエールの丘へ登る地下鉄とケーブルカーがあります。   拡大 ⇈
                               ・

                                                  神の似姿を生きる (上)
                                                  ルカ6章27―36節


                              (1)
  今日の個所は素晴らしい教えです。内容がびっしり詰まっています。「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と27節にありますが、この言葉から推測すれば、弟子たちは上の空でなく、耳をそばだて心を傾けて聞いていたのです。ですから私たちも、ぜひ心を集中してご一緒に聞いて行きましょう。

  イエスは、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と語り、35節で再び、「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」と言われました。

  イエスはここでアガペーと言う言葉を何度も使って、神の愛を持って愛しなさい。相手がどう出て来ようと、逃げずに主体的に善意を持って相手に関わり、敵をも愛して行きなさいと言われたのです。

  その戦術によって相手に勝てとか、倒せるとか、征服できるとかでなく、ただイエスの言葉ゆえに善をなし、祝福をもって接しなさい。そうすれば多くの報いがあり、いと高き方の子となると勧められたのです。

  これは全く正しい道だと思います。これに従う者は堂々と生きることが出来るでしょう。「私の心は定まりました」と詩編にありますが、この生き方に心を定めて生きるなら、誰にも恥じず、悪びれることなく、正々堂々と天下の王道を落ち着いて進むことができるでしょう。

  そうは言うものの、私たちは憎む者に親切な振りは出来ても、心から親切に出来ないし、悪口を言う者や侮辱する者を祝福しても、心から祝福を祈れない自分を知っています。ましてや29節以下の、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」という言葉の前では、殆どお手上げの状態になります。

  すると色々理屈が出て来ます。誰にでも自分の時間を与えてばかりいては、自分の時間がなくなるんじゃあない?。長電話の人がいますね。普通要件は15分以内ですみます。せいぜい30分です。でも1時間、いや1時間半してもやめない。もう嫌になっちゃう。それが数日おきになればどうです?持ち物を奪う者から取り返さなければ、丸裸にされてしまう。今日、この戒めに本気で従えば、大都会には勝手な人間が沢山いるので、右の頬も左の頬も情け容赦なく打って平気な顔の人もいます。上着も下着もすっかり取られて、さんざんな目に遭ってしまうだろう。自己責任で自分の事は自分でしっかり守らなければならない時代である。この戒めは不可能である。これは自分のような者でなく、特別な人たちにだけ言われているのでないかと言うことになります。

  あるいはこんな理屈も出て来ます。「頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」もし戦争でこんなことをしては、見る見るうちに敵にやられ、命を奪われて占領されてしまうだろう。だからやはり不可能であり、今日では不適切であるということになります。

  しかし、そういう理屈でこの素晴らしい教えを葬ってしまっていいのでしょうか。イエスはここに言われたことを言葉通り、そっくりそのままその通りしなさいと言われたのでしょうか。そういう字義通りの命令として言われたのでしょうか。

        (つづく)

                                            2016年8月28日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・